政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第2回勉強会(11月26日)のお知らせ

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。

第2回勉強会を11月26日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

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第2回勉強会のお知らせ

第2回勉強会では、第1回勉強会で挙がった下記の論点を具体的に検討するために、下記会員より、15分程度、それぞれの現場から客観的なデータをご提示いただきます。その上で、参加者の間で、立場や党派を離れて、データと経験知に基づく議論を行いたいと思います。

  • 日時:11月26日(土)13時30分~16時00分
  • 場所:山形大学人文学部棟1号館2階25演習室(駐車場あり。場所が分からない方は、正門横の守衛室でお尋ねください)
  • 報告者(タイトルは仮):
    • 梅津庸成会員「国政における地方創生の〈いま〉」
    • 小野仁会員「山形市における地方創生の〈いま〉」
    • 草苅裕介会員「農業における地方創生の〈いま〉」
  • facebookページ https://www.facebook.com/events/311660489212177/

※ご参加頂ける方は、11月24日までに事務局までご連絡ください(facebookアカウントをお持ちの方は、上記Facebookページでも参加申し込みを受け付けています)。

 第1回勉強会のまとめ

9月3日、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第1回勉強会が開催されました。

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各方面から22名の方が集まり、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。第一回はキックオフということで、人口ビジョンと総合戦略の全体像と課題を把握することが狙いでしたが、各参加者から活発なご発言が相次ぎ、今後の議論の方向性もさまざまに示唆されました。ある程度、共通理解の得られた主な論点のみを簡単に整理すると以下の通りです。

まず、現下の地方創生事業は、(バラマキに終始するのではなく、選択と集中を促すという点では)これまでと異なるものの、国と地方の枠組みを変える仕掛けはなく、その点で、従来の交付金事業と変わりはないのではないか、との指摘がさまざまになされました。

したがって、地方創生事業が人の大きな流れを変えるだけのポテンシャルを持ちうるものなのかという点からの検証が必要です(東根市や天童市の人口増も、東根以北からの人口流出という社会的条件が背景にあって生まれているのであって、政策そのものが人口増の直接的な原因ではないとの意見もありました)。

そのなかで、山形市は、人口30万人ビジョンを掲げています。上記の点から、その実現に向けての課題(場合によっては、実現可能性そのもの)を明らかにするとともに、都市計画や土地利用計画との整合性や財政の自立性、他の市町・県との関係なども考える必要があります。

さらには、従来の都市計画に典型的に見られるように「上から」空間をゾーニングすることで都市を発展させるスキームの限界も指摘されました。空き地や空き家が増えていく今日の歯抜け型の都市空間を前提にした新たな都市計画が必要とされています。

実際に、そうした空間を共同利用の場として位置づけ、そこから自立的な社会経済活動を生み出そうとする人びとに対して、行政が支援・補助するといった「下からの」政策も行われています鶴岡市の取り組みなど)。

 

会員紹介(第6回)齋藤直希会員(障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表)

第6回会員紹介は、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」代表の齋藤直希会員です(2016年9月18日インタビュー)。先天性の重度障害者でありながら、さまざまな「社会の障害」をも乗り越え、普通高校、大学で学んだ経験と専門の法律を土台に、障害のある人とない人との相互理解に基づく政策研究の場を作っておられます。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まって、形の人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

齋藤直希会員プロフィール
さいとう・なおき。1973年7月上山市生まれ。県立上山養護学校、県立ゆきわり養護学校を経て、肢体不自由者でありながら、県立山形中央高校に入学。同校卒業後、山形大学人文学部に進学し、法学を専攻し、在学中に行政書士の資格を取得。現在は、障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表、ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)・代表。

厳しい「訓練」と養護学校の生活

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たいていの子どもは、生まれてから半年までには首がすわるそうですね。ただ、私の場合は、なかなか首がすわらなかったようです。やがて、「脳性麻痺ではないか」という話になり、2年ほどの判定期間を経て、79年に障害者認定されました。

自分が「他の人とは違うな」と自覚し始めたのは、3~4歳の頃です。「訓練」がきっかけです。極わずかの親族のなかには「障害者を外に出すな」ということを言う者もいたのですが、母が、そうした反対を文字通り「死ぬ思いで」振り払って、訓練に連れ出してくれていました。ただ、当時の訓練は、とにかく「健常者に近づくこと」が目標でした。周りの人も母もそれが正しいことだと思って、厳しい訓練が行われていました。

子どもとしては、そうした訓練を受けるなかで、「どうして自分ばかり」という思いを持つようになったわけです。私には姉がいて、その姉はそうした訓練をしていませんでしたし、障害に理解のない極わずかの親族からは人間扱いされていなかったので、「自分は他の人とは違うんだ」と思うようになったんです。

ただ、とはいっても、肢体不自由者の通う上山養護学校(現・ゆきわり養護学校)に入学すると、周りの同級生3~5人は、同じように障害のある子だったし、程度の差はありましたが、周りの大人も障害のことを理解してくれる人たちに囲まれて生活することになりました。なので、「他の人と違う」ということを過剰に意識して、卑屈になることはありませんでした。

たとえば、9歳のころに、給食をボイコットしたことがあります。給食の前が体育の時間だったのですが、ドッジボールを片付けることになって、先生から「あと3分で片付けましょうね~。できなければ、給食抜きだよ~。約束だからね~。」と言われたんです。だから、一生懸命片付けたのですが、1分ほど遅れてしまいました。だから「給食抜きか」と思っていたら、先生が「冗談だよ~。言葉のあやだよ~。給食を食べなさいよ~。」と言うんです。

そこで、当時“マセガキな”私は頭に来たんですね。「ふだん『約束をしたら守りなさい』と教えるのは、先生の方じゃないですか。そんな先生の方から約束を破るの?先生は『約束を破ること』をすすめるの?」と食ってかかったんです。そんな具合に、誰とでも議論をするのが好きな、よく話す人間と見られていました。養護学校には寄宿舎もあって、だから、養護学校の先生は、親や兄弟のような存在でもあったんです。

友との出会いと普通高校進学の決意
―「死なない限り、何でも我慢できる」

ゆきわり養護学校

人生の転機になったのが、小学4年の10歳のときに起きた両股関節脱臼です。主治医の判断で手術をしなければならなくなったのですが、その結果、あぐらを組むことすらできなくなってしまいました。これまで一生懸命、訓練してきたのに、それが無駄になり、さらに、もうこれ以上、訓練しても、身体の機能は良くならないという状態になってしまったのです。

「両股関節」という観点で考えると主治医の判断は決して間違ってはいなかったんですね。ただし、「脳性麻痺障がい児の全身の運動機能」という観点でいえば、他に様々な考え方もあることが、後々になってわかりました。とはいえ、「脳性麻痺」に関する医学的研究も今とは全く違うので、「時代のいたずら」と、今の私は理解しております。

ただ、その時、私は療育訓練センターに入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に転校することになったんです。そこでは、同学年の結城君と佐藤君も入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に在学していました。一人は元々健常者で手術が必要になり、一人は乳幼児期の脳幹障害で入所していました。この二人ととても仲が良くなりましたが、お互い連絡先を交換することもなく、治療を終えた私は、療育訓練センターを退所して、元々の上山養護学校の方に戻ったわけです。

ですが、そのような形で一度別れた結城君と佐藤君ですが、私が中学2年に上がるときに、上山養護学校とゆきわり養護学校が合併することになり、不思議な運命に絡まって、みんなと再会することになったのです。そのとき、「一緒に普通高校に行こう」という話を2人に持ちかけられたんですね。小学4年生のときの結果とはいえ、体はこれ以上良くならないのだから、あとは勉強するしかないと決意しました。

このことを母親に相談したところ、こう厳しく言われました。「気持ちは良く分かる。でも、遊び行くところじゃないんだぞ。どんな辛い目にあうか分からない。廊下で授業を受けさせられるかもしれない。覚悟はあるのか」と。

当時の私は、学校の始業前の1時間、終業後の1時間、人よりも早く登校し、遅く下校して、春・夏・秋はもちろん、真冬も暖房のかからない冷え切った体育館や部屋等で訓練をしていたので、「死なない限り、何でも我慢できる」と思っていました。だから、「母親が介助してくれるなら、大丈夫、平気だ」と答えたんです。

とはいえ、養護学校の先生も保守的な先生が多かったので、説得するのが大変でした。まずは、学力面で心配されたので、アマチュア無線4級をとって、英検3級を取りました。さらに、幸運なことに、読書感想文全国コンクールで山形県最優秀賞受賞、全国大会についてノミネートされる事になり、全国大会で3~4位に相当する全国学図書館協議会長賞を取りました。

www.dokusyokansoubun.jp

もうひとつ運の良かったことがありました。養護学校の校長として新たに石澤先生が赴任なされたことです。石澤先生は、私たち―とくに母親―が真剣であり、口だけでないことを理解してくださり、高校側との交渉を引き受けて下さいました。

というのも、当時は、高校入試を受けて、合格点が取れれば、それで入学させてくれるというわけではないからです。地域によっては、公立私立を問わず、障害のある者が高校入試を受けたり高校に入学することについて裁判になり得た時代だったのです。

そのため、模試を受けて学力があることを示す事はもちろん、受験後の「入学」「通学」その他の学校生活に関する事柄において、あらかじめ交渉をして許可をもらわなければならないのです。ちなみに、私立との併願もできませんでした。校長先生が言うには、「両方受かれば、押し付け合いになるから」です。

ちなみに、現代においても、複数の関係者から、「介助を必要とする重度障害児の生徒さんが、養護学校や特別支援学校から直接、普通高等学校に進学することの『壁』は、まだまだ高いよ」という話を、よく耳にしており、今の私は、複雑な想いにかられます。

見下す先生、励ます先生

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当初は、学力的に入れそうな、とある公立の進学校を希望していました。模試は、鉛筆を口で取り、不自由な手に運ぶような状態であるにもかかわらず、周りの人と同じ試験時間しかありませんでした。そこで、母親は「8割書いて、それが正解であれば、400点はとれる」と言うわけです。それを実践して、実際に、400点をとることができていました。

学力的には問題ないと考えて、希望していた進学校を、養護学校の校長先生と母親が訪問したのですが、そのとき、保健の先生から「なぜ、あなたのような生徒が、うちの学校を選ぶのか」と見下したものの言い方をしたんです。 帰りに、別の先生が謝ってくれましたが、「とてもくやしかった」と母親は養護学校の校長室で号泣したそうです。

ところが、養護学校の中でそこそこの責任のある先生なのでしたが、その先生お一人だけでしたが、そのことを知ると「当然だ。障害者はみじめだ」というのです。自分たちの決意を応援してくれる人は数多くまでとは言えないかもしれませんが、少なからずおりました。しかしながら、「判断に迷う」「戸惑う」という考え方の先生方も存在して居られました。

そうした状況を踏まえて、こう考えるようになりました。無理にこの学校に入って、中途半端な成績を取るようでは、周りからどう考えられるか分からない。そもそも、併願はできないので、入試に落ちたら、普通高校進学が断たれてしまう。当時この学校の校舎は4階建てで、おんぶをして階段を上り下りする母親の負担が重すぎる。そして何よりも、「将来は山形大学に進学して法律を学びたい」という夢の道を、確実に歩んでいきたいと考え直しました。その結果、3階建ての山形中央高校に進学先を変えました。

山形中央高校での生活―完全な別世界

山形中央高校

山形中央高校の先生は、すぐに養護学校に見学に来てくれて、「頑張れ」と言ってくれました。卒業後、10年くらい後に伝聞で聞いたことですが、それでも、実際に、入試後の判定会議では、合格点を取っていたにもかかわらず、合格させるかどうか賛否が半々に分かれたそうです。

結果的には、「入学後の学校生活が無理なら、学生本人親子自ら退学を選ぶかもしれないし、もしそのように本人親子たち自ら動かない場合は不本意ではあるが、退学させるしか道は無いし、その道も残されている」ということで、賛成派側も反対派側も話し合いの上で、合格になりました。この逸話も卒業後10年後の話の時に、聞いた話です。

高校に入ると、それまでとは別世界です。違和感ばかり。完全なアウェーです。もちろん、学校側は、出入り口に緩やかな坂をつけたり、車椅子にあわせた机を作って教室や理科室においたりしてくれました。

それでも、周りの生徒からは、「なんでここに、障害者―実際には、当時の高校生に身近な存在としての「『障害者』という概念や言葉等」はなく、「遠い存在」のような感じで、「テレビで見るような体の不自由な人」―がいるの?」といった目が向けられました。当時は、社会一般的に、障害者用トイレなどもありませんでしたし、車いすを見たことすらないというのが当たり前でした。

ただ、差別意識がどうこうというよりは―入学当初、挨拶をしても無視する先生も極まれにいましたが、もちろん、その先生は、3年生くらい頃からようやく挨拶してくれるようになりました―、お互いにどう接したら良いのか分からなかったというのが大きかったようです。

周りの皆様が障害者のことを、よく知らかったようなのは、私が健常者のことを知らなかったのと同じなんですね。生い立ちも含めて、それまでの生活がまったく違うし、同じ中学の友達がいるわけでもないし、一緒に登下校することもないし、部活もできないし、いつも母親がいるし、すべての行動パターンが違うわけです。私も、自分から話しかけようと努力しましたが、何を話したら良いのか私自身がわからなかったのです。

だから、最初の一年は、自分から壁をつくってしまいました。「俺は友達を作るために普通高校に来たのではない。勉強しに来たのだ。遊びに来たわけではない。」というふうにです。それでも、先生の働きかけもあって、10回に1回ぐらいかな、同級生が母親の代わりに私自身を車椅子ごと担いで、階段を上り下りしてくれましたし、1年生の最後のクラスについての感想文では、「私がいたことで、クラスにまとまりが生まれて、良いクラスだった。このクラスメイトとまた学びたい」といった内容がほとんどで、ありがたかったです。

2年生、3年生になると、受験勉強が共通のテーマになっていき、勉強の質問とか、ノートを見せてもらうなど、コミュニケーションをだんだん取れるようになりましたが、殻に閉じこもってしまった自分のキャラクターを変えるまでには至りませんでした。

一方で、母は「人に迷惑をかけてはいけない」という人で、介助のかたわらで、購買部の手伝いをしたり、草むしりや掃除といった用務員の手伝いをしたり、同級生の女の子と仲良くなったりして―禁止されているおやつを隠れて他の生徒がコンビニで買って来た物を一時的に預かって隠してあげたりといった、いけないこともしていたようです(笑)―、卒業式の際には母親に感謝状までいただきました。

いずれにせよ、学校の皆さんと母親のおかげで、私は三年間、無遅刻、無欠席、無早退で通学することができたのです。このことが、いかに大変で、そして、いかにありがたいことであったのかは、私たち親子と山形中央高校のことが、当時の朝日新聞の「天声人語」で取り上げていただき、参議院の文教委員会の方でも取り上げられたことからも、お分かりいただけるのではないでしょうか。

山形大学入学―「障害者でも入れるレベルの低い大学」?

こうして、念願だった山形大学人文学部に入学することになりました。県内のすべてのマスコミが取材にやって来て、全国誌の週刊誌まで取材依頼がありましたが、それは断りました。「別に大したことをしたわけではない、自分は勉強しただけだ、周りに恵まれた結果である」と思っていたので、変に取り上げてほしくなかったのです。

そもそも法律を学びたいと思ったのは、小学生の頃にさかのぼります。当時から日本史が好きで、時代によって「決まり」があり、それが社会や一人ひとりの人間と深く関わっていることに興味を持っていました。その「決まり」というのが、例えば聖徳太子の時代であれば十七条憲法、というように、時代と共に、大宝律令武家諸法度、などなど、今日の日本国憲法に至るまでの「法律」でした。

ただし、ここで触れたのは「近代法学としての『法律』」というよりは、ただ単に子供の頃から日本の歴史の好きな一人の人間が感じた「社会の中にある『決まり』という意味での『法律』」という意味に、過ぎませんでしたが……。とはいえ、障害をきっかけとした私の身近に関わる問題も、法律を勉強することで、解決することができるのでは、と子どもの頃から子どもなりに考えてもいました。

大学に入って、ようやく、本来の自分のキャラクターを取り戻すことができました。大学はいろいろなバックグラウンドを持った人が集まっているし、先生も講義の内容もさまざまです。とくに、模擬裁判の活動に参加したことで出会った多くの先輩と、2年生になってから友達になったI君から大きな影響を受けました。

I君は講義室の最前列で講義を受けるような真面目な学生でした。2年生にもなると、先生の板書も少なくなり、ノートを取るのが大変になっていたので、I君にノートを見せてくれるようお願いしたのです。そうしたら、「話はわかった」と言いつつ、逆に「話を聞いてくれ」と言って、こんなことを言ってくれたのです。

僕は障害者でも入れるレベルの低い大学に入ってしまったと入学当初のころ思っていたが、それは間違っていた。なおき君とお母さんの頑張りが尋常ではなかったのだ、と気づいたんだ。だから、手伝うのはやぶさかではない。とはいえ、授業が必ず一緒になるとは限らない。望むノートを渡せるとも限らない。私は、たとえて言うなら『スーパーマン』じゃないんだよね。君のことを理解しきりたいのだけれど、分かり切ることは出来ない。僕が僕自身で僕の体を1週間手足を縛られても、君の障害の苦しさとか、全てを理解するのは無理だと思うんだ。なぜなら、僕の場合は1週間立てば元通り。君の場合は、生涯にわたってそのままの体なわけだから……。だから、僕の出来ることなら喜んで手伝いたいんだ。だけど、君の望む全てが出来るかどうか、わからないという事を、君にはわかっててもらいたいんだ。

もちろん、自分はそこまで求めるつもりはありませんでしたが、彼は真面目だから、「手伝う以上は真剣に」という気持ちから、あえて、自分の事情を伝えようとしたんですね。そして、それが、彼にとっては大切なことだったのです。私は、この言葉に眼が開かれました。

つまり、「障害者だから助けてもらう」のではないし、「健常者だから助けてあげる」のでもない。私は、一生懸命頑張っているが、それでもできないことがある。だから、できる範囲で助けてほしい。それに対して、I君は、私のことは理解できるので、自分にも限界はあるが、できることはしよう。それだけのことなのです。

普通にコミュニケーションをして、納得をして、付き合って、影響を受け合って、変わっていけば良いだけなのです。「障害者だから」「健常者だから」ということから、コミュニケーションを始めるのではない、ということです。

相互理解の上に成り立つ法と制度
―障害者差別解消法をめぐって

齋藤×伊藤

実際、法律を学ぶなかで理解した大きなことの一つが、法律によって人の心情を変えることはできないということです。「法律によって人の心を強制することが許され」れば、それでは憲法違反です。 では、福祉の法や制度は、何のために必要か。

「障害者だから」という観点でコミュニケーションしようがしまいが、実際には、障害者なので、さまざまな面で社会的な支援を必要としています。その支援をすべて、目の前のコミュニケーション、人間関係で成り立たせようとしたら、その関係は破綻してしまいます。

法や制度による支援があって―私の生活は多くの人の税金によって成り立っています―、特定の相手に過度の迷惑を掛けずに済むことになり、初めて、目の前のボランタリーな人間関係が成り立ち、相互理解が成り立つ。つまり、「障害者だから」「健常者だから」ではない“自由な”コミュニケーションができるのです。

そもそも論を言えば、法律が必要とされる理由は、簡単に言えば、「社会秩序の維持のため」にあります。「社会あるところ法あり」という法諺―法律に関する格言―がありますが、これを端的に示しています。ただこれは、昔の「決まり」とは違って、現代では、「『法律によって社会秩序を守る』ことによって、社会を形作る一人ひとりの『個々人の自由を守る』などのためにある」などと、されています。「なぜ法律があるの?」という理由のようなモノですね。

ですので、「社会の変化」に伴い、「法律や制度が変わる」ということにもなるわけです。社会の変化や問題に対して、すべて法制度が変化して対応出来るというのは、現実的に困難ではありますが、法律というものが、社会の変化に対する「社会秩序の維持や問題解決を与える手段の一つ」として、存在しているということは、おそらく間違いないと考えます。

そのような形で、法律があることで社会が守られることにより、一人ひとりの個々人である市民が、“自由”を守られ、自由な活動が出来るものと、私は考えております。そして、そう言った「自由が守られること」により、自由なコミュニケーションが出来るものと私は考えています。

たとえば、今年の4月から障害者差別解消法が施行されました。これによって、障害を理由とした「不当な差別的扱い」を行うことが法的に禁止され、公的機関では、当事者の申し出に応じて、過度の負担にならない範囲で、社会的障壁を取り除くよう、調整や工夫を行うこと、つまり、「合理的配慮」を行うことが法的義務とされました(民間事業所は努力義務です)。

法の施行に当たり、2014年に山形でもシンポジウムが開かれたのですが、そのとき、参加者の方の一人が、「障害者差別解消法は、錦の御旗のように、使えるかも!」といった趣旨の発言をなさいました。私は、先ほど述べた「法律によって人の心情を変えることはできない」という理由から、それでは、むしろ危うい方向に進むことになりかねず、障害者と健常者の相互理解には結びつかないと思いました。

他方で、障害者のなかにも、自分で出来ることを怠りつつ、それでいて、ただ「社会が悪い」「周りが悪い」と言って、一方的に要求する態度を取る人たちが、少ないでしょうが現実に存在します。そうした人たちにはそうした人たちの考えがあるのでしょう。それを「否定する権利」は私にはないので否定しませんし、否定できません。しかし、それだけでは、真面目に“障害者の方を理解しようと考えている”健常者の理解は得られないのではないかと、私は感じます。

障害者が、健常者と同じようにはできないのは厳然たる事実です。それでも、「必要十分な支援を受けながら」であることは必須事項となりますが、そのような支援を受けながらも、「自分なりに出来ることはやらなければ」、同じ一人の人間として向き合うことができないと考えています。

そして、「自分なりに『出来ること』」ということは、別段、たいしたことでなくて良いと思います。「ご飯を食べること」「散歩に出ること」といった日常生活的なことや、さらには、障害者やその障害の種別や軽い重いの違いや、疾病や難病などの原因の違いを踏まえた上で(元々、誰ひとりとして同じ能力や性格のヒトはいない“違いのある存在”ですが)「“同じ人間”として関わること」だと思います。そして、こうした「自分なりに『出来ること』」は、そのヒト当事者のペースで、休みながらで良いとも、私は思うのです。

障害者だからといって、ことさら「努力の人」になる必要もなく、ことさら「(心など)キレイな道徳的な人」でなければならないとは、私は考えておりません。これもまた、障害者等や健常者との“違い”なくと言いますか、「社会に存在する、ただの単なる一人の人間」としての感じ方と、似たようなかたちで良いと私個人は思うのです。

だからこそ、「みんな違う存在としての『相互理解』を促進する」ことこそが、大事なのではないかと、私個人は考えますし、そのために「様々な背景を持つ方々との自由なコミュニケーションが必要不可欠なのでは」と感じますし、その「自由なコミュニケーションを守るための一つの手段」として、法律や制度も大切であると、私個人は考えるのです。

残念ながら、山形の障害者は、これまで外に出て行く機会が少なく、障害者運動のようなものも大同団結のような大きな動きは極めて少ないとの印象を私はもっております。そうしたなかで、外から法律だけがやってきているのです。

本来であれば、私たち障害当事者自身がもっと外に出て、自分たちを知ってもらうとともに、自分たち以外のことを知るようにしなければなりません。障害当事者が外に出るための支援が必要であるならば、障害当事者が動くべきであると私個人は考えます。

つまり、社会システムにのっとった形で、様々な人に働きかけると共に、社会全体に働きかけること。そして、その延長線上に、福祉行政などに働きかけて、「多くの障害者が、広く実質的な平等性を踏まえて、個々の障害者の現状をかんがみた支援を受けられる」ように働きかけることです。「一人だけ」とか「障害者や難病者の方の中でも特定の誰かのみ」というような限られた人だけが、支援を受けることができるような社会システムでは芳しくないと、私個人は感じるのです。

実際、合理的配慮が求められる時代になっても、例えば普通高校の壁は依然として高いですし、そもそも通学の介助は介護保険障害福祉の対象にならない、といった介護保険法や障害者総合支援法の規定を多くの人は知りません。 障害者差別解消法も、対象は個人であって、たとえば、障害者施設や事業所や団体等に対する差別的反応など、差別、いわば“差別感情”そのものを解消させてくれるものではありません。

ですから、個々の地域の実情に応じた条例の制定が必要になります。そして、条例の制定にあたっては、私たち山形の障害者が表に出て行き、社会の皆様との相互理解をはかる必要があるのです。

障害者/健常者が変わるための場所づくり
―新たな政策形成を目指して

私の話に戻ると、大学在籍中に、今言ったような理由から、私は福祉制度の根本をなす行政法を専攻し、在学中に行政書士の資格を取りました。卒業後は、司法書士を目指して勉強を続けましたが、自分が骨折してしまい、母親も脳梗塞で倒れてしまったので、十分な勉強ができなくなってしまいました。

それでも、現在は、公的介護制度と山形における運用に見られるさまざまな問題点を、障害者と健常者の垣根を超えて話し合う場をつくっています。ひとつが、「ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)」です。

これは、そもそも、滝口克典さんと松井愛さんが代表を務める「ぷらっとほーむ」さんが2015年4月に企画された「じゅくぎ@ヤマガタ」から始まっています。これは、山形市内8か所で、それぞれにテーマを設けて、それぞれの場所で、集まった人たちがそれについて改めてじっくり話す、という熟議の場づくり企画で、その企画に賛同して、自宅で開いたんです。

plathome.wixsite.com

それをイベントで終わらせるのはもったいないということで、ストック・アウェアネスという会に発展させました。制度や政策というと、少し敷居が高いので、きちんとテーマを決めつつも、気楽に議論ができる場にしたいと思っています。

もうひとつが、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」です。この会は、制度・政策志向の会ですが、行政や制度に対する不満を内々でぶつけあって終わるのではなく、しっかり勉強して、根拠理論と形式を整えて、行政に障害や難病等の特性を踏まえた政策提言をしていこうという会です。

小野仁先生が発起人だったのですが、小野先生から、当事者が代表になるべきだ、と言われて、周りの方も賛同してくれたので、代表になっています。第1回目の創立を兼ねた例会が2016年3月に開かれました。

実際のところ、一口に「障害者」といってもさまざまで、横のつながりはごく限られています。障害者と健常者の世界がまるで違うように、障害者や難病者同士の世界もまったく異なります。せめて、障害などの違いがあっても“障害者や難病者同士”では深くつながりたいと思っています。ですから、私が障害者などの代表だという気持ちはまったくありません。

と同時に、障害者の世界にこもることなく、今の社会の中を生き抜く一人の人間として、社会に存在する障害者として、社会全体を学んでいくこと―具体的には、(障害者と通称される方以外の)いわゆる健常者の抱える問題を含む社会全体の様々な諸問題を学ぶこと―が非常に大切であると考えるに至りました。

障害者として、そういった「学びの場に参加すること」によって、他の参加者の皆様に、社会に存在する者としての「障害者」の実情を知ってもらうこともできますし、障害者自身も、健常者や社会全体の問題を学ぶことによって、「相互理解」が促進されるのではないかと感じるようになったのです。

さて誰が、そのような行動を起こすのか。間違いなく感じることは、誰かが出て行かなければ、何も変わらないということです。制度が勝手に変わって、現実も勝手に変わってくれるというものではありません。一段一段、階段を上るしかない―電動車いすでは登れませんが(笑)。

そうした思いで今回、政策研究ネットワーク山形に参加させて頂くことにしました。ご迷惑をおかけすることが多くあるかと思うと心苦しいのですが、それが社会というものだと考えて、いろいろな人が集まり、つながることで、政策を生み出していくことができればと思っています。

(2016年9月18日・インタビューア:伊藤嘉高)

伊藤嘉高事務局長、齋藤直希会員、齋藤郁子会員

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第1回勉強会(9月3日)のお知らせ

人口減少の克服に向けた安倍内閣の「地方創生」が計画作りの段階を終え、山形でも、さまざまな事業が実施されています。しかし、地方の現場レベルからは、この計画に対しても事業に対しても、さまざまな批判や不満、不安の声が聞こえてきます。

政策研究ネットワーク山形では、今年度の研究テーマを「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」に決定し、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。今後、2か月の一度のペースで勉強会・検討会を行います。初回は、9月3日14時30分より、山形大学小白川キャンパスで行います。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

人口ビジョン、総合戦略とは

2014年12月、政府は、「地方創生」に向け、人口減対策としての「長期ビジョン」と今後5か年の「総合戦略」を策定し、関連予算・支援措置を決定しました。そこでは、「2060年に1億人程度の人口を維持」、「東京への過度の集中を是正」、「地方への企業や人の移動を促進」などについて着実に取り組んでいくことが謳われました。これを受けて、全国の都道府県と市町村各自治体でも、短期間のうちに、地域版の人口ビジョンと総合戦略を策定することになりました。

各自治体は、人口推計および各種調査を行い「人口ビジョン」をとりまとめ、そこで掲げた将来展望との整合性を図りながら、「総合戦略」の基本目標を設定し、講ずべき施策に関する基本的方向性と具体的な施策と客観的な指標が設定され、効果検証方法が定めています。多くの自治体では、国の総合戦略で定める4つの基本目標(1)しごとをつくり、安心して働けるようにする、(2)新しいひとの流れをつくる、(3)若い世代の結婚・出産・子育ての希望をかなえる、(4)時代に合った地域をつくり、安心な暮らしを守るとともに、地域と地域を連携する、を念頭に、総合戦略の基本目標を設定しています。

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人口ビジョン、総合戦略に対する批判

しかし、こうしたビジョンや方針については、数々の批判がなされています。まず、多くの自治体では出生率向上や移住者増などを織り込み、人口流出に歯止めがかかることを前提にして、さらには大幅な人口増を目標とする自治体も多く見られます(山形市の場合、2050年に人口30万人を目標)。これが非現実的な目標であるという批判です。しかし、この目標設定については、正直に「できない」と言えば、国から財政面などで不利な扱いを受けかねず、また、前向きな数字を掲げなければ自治体の自己否定につながるという行政の論理もあるようです。とはいえ、現実には東京圏への人口流入が続いており、人口減少をカバーするほど出生率が大きく上昇する見込みもありません。

実際、総合戦略をみても、観光や地場産業の振興、子育て支援策の強化や企業誘致といった、既存政策ばかり並べたところが少なくありません。これまでも地域振興や地域活性化など、さまざまな取り組みがなされ、相当程度の予算が費やされてきたが、その結果や効果はどうだったでしょうか。

また、非現実的な計画を掲げることで、都市計画などの策定についても大きな影響を及ぼし、自治体担当者の負担を高めています。さらには、地方創生関連の交付金は、ソフト事業がメインとなるため、東京のシンクタンクを儲けさせているだけとの指摘もあります。

したがって、今までと同じような事業を行っても仕方ありません。人口の増減に一喜一憂することから離れて、すでに住まう一人ひとりの住民が自ら考え、地域が自立するために自らが行動するという流れをつくり、それを行政が支えていくという考え方に変わらなければならないという主張もあります。つまり、地域の人口が減る「現実」を直視し、成熟した人口減少社会の将来像を描き、現実的な目標を設定し、住民参画によって主体的、自立的、整合的な事業を進めることから、真の地方創生は始まるというわけです。

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第1回勉強会のお知らせ

  • 日時:9月3日(土)14時30分~17時00分
  • 場所:山形大学小白川キャンパス人文学部2号館2階23演習室(当日は建物入口が施錠されているため、入館方法については事務局までお問い合わせ下さい)
  • 報告者(タイトルはいずれも仮です)
    • 北川忠明会員「総論~人口ビジョン・総合戦略とは」
    • 村松真会員「社人研推計値との乖離から見る人口ビジョンの現実性」
    • 石川敬義会員「山形市発展計画を読む」
    • 小野仁会員「人口ビジョンと山形市行政施策の整合性」
  • Facebookページ facebook.com/events/1750111888582391/

※ご参加頂ける方は、9月1日までに事務局までご連絡ください(上記Facebookページでも受け付けています)。

関連リンク

山形県版総合戦略の策定について — 山形県ホームページ
県の人口ビジョン、総合戦略のほか、県内各自治体の人口ビジョン、総合戦略へのリンクがあります。

28年度総会(5月21日)のお知らせ&発表者募集

平成28年度の総会を下記のとおり、5月21日(土)に開催します。今年度の総会は、会員の方々の交流を図り、知のネットワーク化を進めるために、各会員からご自身の活動や考えを自由に発表していただく機会を設けることにしました。

非会員の方も、当日ご入会頂くことで(年会費:無料)、参加&発表頂くことができます。ぜひともご参加ください!

会員の自由発表(活動報告)について

政策研究ネットワーク山形は、考え方や立場やアンテナの異なる多種多様な方が参加しています。そこで、会員同士でお互いの活動について知り合い、そこで指摘される問題点について考え合う機会を設けることで、私たちを取り巻く社会の諸課題の「根本」に迫りたいと思います。

発表時間はお一人10分以内(8分を目処に、残り時間を質疑応答に当てます)で、総会参加申込時に、発表タイトルをお知らせください。後日、発表スケジュールをお知らせします。当日は、PCとプロジェクタも用意します。

短い時間で、さまざまな方々によるさまざまな視点や論点を知ることのできるお得な機会です。気軽な発表会を予定していますので、皆様には、ぜひとも、ご発表ください!

ご参加いただける方は、前日までに事務局までご一報ください。ご発表いただける方は、5月14日までに、発表タイトルをお知らせください。

ご発表いただけることになった方とテーマをお知らせします5月13日現在、随時更新)。

発表者と発表テーマ(5月13日現在、随時更新)

  • 伊藤嘉高会員(山形大学医学部)
    「病院再編をどう考えるか」
  • 諏訪洋子会員(「義姫の会」代表)
    「『義姫の会』のねらい」
  • 齋藤和人会員(NPO法人 山形の公益活動を応援する会・アミル)
    NPOをとりまく状況(仮)」
  • 北川忠明会員(山形大学人文学部長)
    山形大学の改革のゆくえ(仮)」
  • 村山恵美子会員(「桜桃の会」代表)
    「私たちの社会参画~継続は力なり」
  • 小野仁会員(山形市議会議員)
    障がい者の政策形成の試み(仮)」
  • 草苅祐介会員(緑の党党員)
    「国内外の緑の党の活動について(仮)」

今年度のミーティングのテーマについて

政策研究ネットワーク山形は、山形における地域生活の切実かつ具体的な課題をテーマとした「ミーティング」を不定期に開催しています。今年度についても、会員の自由発表のなかで皆さんが興味深いと思ったものなど、ミーティングのテーマについても話し合いますので、テーマや外部講師のご希望のある方は、当日、ご提案ください。

日時と場所のご案内

  • 日 時:2016年5月21日(土)午後1時30分より
  • 場 所:文翔館第2会議室(正面入口から入り階段を上り、旧政庁の右隣の部屋) 山形県山形市旅篭町3-4-51、TEL 023-635-5500
  • 駐車場:同館北の道路を挟んで反対側にあり
  • 会 費:無料

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会員紹介(第5回)諏訪洋子会員(義姫の会代表、前山形市議会議員)

第5回会員紹介は、「義姫の会」代表で前山形市議会議員の諏訪洋子会員です(2016年3月19日インタビュー)。山形市議会議員として、補助金行政や公務員制度などに対する問題点を追及するなど、既成政党とは一線を画した活動を行い、現在は、「義姫の会」代表として、義姫再評価による観光の振興を目指しておられます。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が集まって成り立っています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

諏訪洋子会員プロフィール
すわ・ようこ。1963年横浜市生まれ。8歳で上山市に移り住み、上山北中、山形中央高、尚絅女学院短大(英文科)を経て山形新聞社入社。95年に退社後、県スポーツ振興21世紀協会、自営業などを経て2011年5月~2015年4月山形市議。2015年7月、市民グループ「義姫の会」を設立。山形市在住。

就職活動の経験を糧に
―「レモンをもらったら、レモネードにする」

諏訪洋子会員1

生まれは横浜市で、近くに米軍の住宅地(本牧ベース)がありました。そこはフェンスで囲まれていましたが、外国人が身近にいる生活でした。ハロウィンの際には、お菓子をビニール袋いっぱいにもらってうれしかったことを覚えています。

8歳で親の仕事の関係で上山市に移り住んだのですが、外国人はもちろんいないし、冬は寒いしと、カルチャーショックを受けました。でも、子どもだったからか、すぐに慣れることができ、かえって山形が大好きになりました。

上山北中、山形中央高、仙台市の尚絅女子短大(英文科)と進み、就職活動をしたわけですが、そこで初めてつまずきを経験しました。希望する企業に応募して順調にいっていたのですが、自分の些細な手違いでふいにしてしまったんです。その結果、周りが新社会人の生活を謳歌し始めたなかで、就職浪人をすることになりました。

今思えば縁がなかったと考えることもできますが、その当時は初めてのつまずきに唖然。しかし、その時のくやしさから立ち上がるためにメンタル強化の本を読むなど、タフさを身につけることができたと思っています。

たとえば、アメリカの諺で「レモンをもらったら、レモネードにする」という言葉があります。日本流に言えば「梅をもらったら梅干しにする」とでも言えるでしょうか。どんなことも、自分次第で価値のあることに変えることができる、だから、何があっても大丈夫、無駄なことなど一つもないと考えられるようになりました。

私にとって、この就職活動が初めてのレモンだったわけです。そして、初めてのレモネードにもなりました。

山形新聞社で女性活躍の道を開く

就職浪人を経て、山形新聞に入社したのですが、当時のマスメディアは外からのイメージとは異なり、とても保守的でした。男女雇用機会均等法が成立した頃だったのですが、男女差別はまだまだ根強く、女性は結婚したら退職するのが当たり前でした。

ところが、ある日、私が所属していた広告セクションに、先見の明がある上司が放送局から赴任してきました。「これからは女性を顧客にしなければならない時代だ」というのです。当時は、女性用の広告なんて皆無に近く、せいぜい化粧品の広告ぐらいでしたね。下着の広告なんてとんでもないという時代だったんです。

それで、世の人口の半分を占める女性を相手にするには、こちらも女性でなければならないといって、社内の女性を抜擢したチームが作られました。フットワークが軽かった私は、営業担当に抜擢されて、社内初の「アドウーマン」になりました。

もちろん、当時社内に女性の広告営業は前例がありませんでしたので、先輩の男性にサポートしてもらい試行錯誤の日々でした。大変ありがたかったです。やがて『ANNE』という女性向けタブロイド誌を発行することになりました。

当時の広告は文字だけのものが主流だったのですが、ビジュアルや感覚に訴える紙面をつくり、それに合った広告をつくりました。たとえば、ケーキであれば、「おいしいケーキ」と文字を打つのではなく、ケーキを美味しそうに食べている女性を載せてキャッチコピーをつけたりといった具合ですね。

寿退社後、「女性ゆめネット」などさまざまな活動に

新聞社での仕事はとても充実したものでしたが、私も例外ではなく、結婚を機に寿退社しました。1995年のことです。もちろん、「なんで女性は辞めないといけないの」という気持ちはありましたね。そんな経験も「レモン」にして、今日で言えば、男女共同参画への関心につなげて「レモネード」にしました。

退社後は、その当時全国的なブームだった、女性起業家と起業を目指す県内の女性40名で「女性ゆめネット」というネットワークを作りました。 その「女性起業者」の一人に政治や社会活動に関心の高い方がいて、いろんな勉強会に誘ってもらい参加しました。

そのうち山形市行財政改革推進委員を拝命し、市民目線での補助金支出の見直し(1億円削減)を経験することができました。残念ながら、その志しの高い友人は亡くなってしまいましたが、その頃にできた「社会」と「自分」との新しい接点が新しい種となり、私の中でしばらく眠っていました。

その後は、山形県スポーツ振興21世紀協会モンテディオ山形のフロント業務、フリーライターとしておいしい山形推進機構の山形の「美味しい食」を取材しながら県内各地を訪れました。たまたま実家に事務所の空スペースができたので、そこにリサイクルショップ「フォーリーブス」を開業しました。談話スペースなども設け、人の集まる場づくりを試みました。

山形市議会議員として
―女性の視点で独自の活動

諏訪洋子会員2

起業をした一方で、40代も後半にきて「自分にやり残していることはないか」と考えるようになりました。そして浮かんできたのが、先ほど述べた「眠った種」です。政治や社会活動への興味は、その後も薄れることなく続いていました。

とりわけ、時代の変化に適応せず「形骸化」したままの政治・行政、意思決定の場に生活者の視点を生かせる女性が少ないことなどに課題を感じていました。そうだ! 意思決定の場、市議会議員に立候補しようと思い立ちました。

とはいえ、私に政治の経験は一切なく、伝手も何もありません。そこで、2010年の参院選を前にして、みんなの党が山形で党員説明会を開くという新聞記事を見つけて、選挙事務所のインターンシップを申込み、事務所の留守番や、街宣に同行させてもらいました。

2011年の市議選の半年前になって、私も立候補を表明したのですが、そのときに、「今さらだけど」と選挙の指南本を渡してくれた人がいました。それを読むと、「半年前までに後援会を立ち上げ」などと書いてあるわけです。もちろん、私にはそんなものはなかったので、急遽、立ち上げました。政治的には素人の先輩、同級生、女性団体や市民活動で知り合った友人などが協力してくれました。震災直後の選挙で、しかも初めての選挙でしたので無我夢中でした。本当に志のみ!よく立候補したな~と思いますね。

それでも、当時の風に乗って、当選させて頂くことができました。当選後は女性の視点と新しいタイプの議員を目指しあえてタブーにも触れていこう、「是々非々」を貫くなら会派拘束のない「無会派」でいこうと4年間を過ごしました。民間の目から見たら不思議でおかしなことがいっぱい、まずは石を投げて波紋を広げることを目指しました。

たとえば、補助金支出の見直しです。山形市の文化事業の補助金支出には、「山形市補助金等の適正化に関する規則」という補助金の事務処理ルールがあるだけで、いくら? 何年? といった具体的な補助ルールはなく、外から見ると不透明。十年以上経っても一度受け取ると、ずっと同じ額が支出され続けている状態でした。

人口減少もあって財政がいっそう厳しくなることが予想され、自立した地域経営が求められるなか、一般市民に明確な説明ができないやり方はもはや通用しませんよね。

他の自治体では徐々に補助金額を減らしていくサンセット方式の導入や、補助率を明確にするなど、最終的には自立してもらう方向へと切換えが進んでいました。地域を活性化するため行政に求められるのは、自立した事業を地域に作り出していくための支援ではないでしょうか。

そう考えて、文化事業の補助金支出のルールを作るよう働きかけました。その結果、ルールのひな形を作成してもらうところまでは行きましたが、「それまでの経緯があるのですべての補助金事業に一律にルールを適用させるのは難しい」とされてしまっています。

みんなの党が掲げていた公務員制度改革も、民間の目から見えれば共感できるところでした。東日本大震災後、国家公務委員の給与が7.8%削減され、地方公務員も倣うべきだとの要請が国から出た際、県内の自治体でいち早く反対したのが山形市でした。もちろん、私はこれに警鐘を鳴らしました。

実はこの国からの要請は地方に支払われる交付金と連動していたのです。つまり、国の言うこときかないと交付金減らすよ、というものでした。地方自治体が自立性を楯に逆らえば、交付金が減らされ市民サービスに影響が出るしくみです。

「これまで当市は独自に給与削減を実施して成果を上げてきたので、国の勝手な要請には応えない」というならば、そのために山形市交付金が減る可能性がありますと市民に説明する必要がありました。しかし、山形市は「自治体の自立性」の一本やりで、ついに市民に影響に関する説明はなく、交付金が減らされてしまいました。

また、山形市では定年後の再就職を公表していません。いわゆる「天下り」について公表するよう訴えましたが、一人の活動には限界がありました。山形市では指定管理者施設の長は公募が原則となっていますが、実際には公募は少なく市役所OBが就いています。そういう実態すら調べなければ分からない。公金が使われている限り透明性の確保はあたりまえです。指定管理者制度のあり方についての採決では、1:34というシーンもありました。諦めやうやむやよりは、議決で意志を示したいと何度か反対討論にも立ちました。

試行錯誤でしたが1期4年の間に、待機児童ゼロ、山形市男女共同参画条例制定、議会基本条例制定などのメイン公約3つは実現することができ充実したものでした。 このように、私なりに既成とは一線を画した活動をしてきたつもりでしたが、みんなの党の解党もあり、無所属で挑んだ2015年の市議選は、多くの方に応援して頂いたものの、当選には一歩及びませんでした。

「義姫の会」設立
―義姫再評価と山形のイメージアップに向けて

諏訪洋子会員3

堅苦しい政治から離れて、改めて自分のやりたい楽しいことはなんだろうと考えたときに思い浮かんだのが、最上義光の妹で伊達政宗の母であった義姫のことでした。私は歴史が好きなんですよ。特にお姫様。義姫の存在はずっと気になっていました。

義姫といえば、最上義光伊達政宗の両軍が現在の上山市の南部で一触即発の危機にあった時、自発的に両陣の間に輿で繰り出し80日間に及び逗留し、血縁者同士の不毛な戦いを止めさせた女性として有名です。今どきの言葉で言うならば戦国時代の「ピースメーカー」です。

一方大河ドラマ独眼竜政宗』で実の息子を毒殺しようとした母親として描かれてしまって、そっちの「奥羽の鬼姫」というイメージが強く世間に定着していますよね。実は、この政宗毒殺未遂事件は曰くがあります。

最上家には改易の歴史があり史料がない、そのエピソードを記した当時の史料は「伊達治家記録」に残されているだけです。しかし、実際には、小田原参陣遅れの言い訳をするための芝居、伊達家存続のために義姫が濡れ衣を着たことが推測される新しい史料・証拠が発見されています。

つまり、義姫は家族を愛しそのために悪者になったままのお姫様です。 義姫を再評価すべきだとの声もたくさん聞かれる様になりました。伊達政宗ファンだという「歴女」はたくさんいて、観光面でも賑わっているけれど、義姫や最上義光ファンではどうでしょうか。そんな状況を変えたいとも思っています。

そのためには、まずは山形の人たちに義姫のことを知ってもらうことが大切です。それで、「義姫の会」を立ち上げて、講演会の開催から始めているのですが、直近の講演会には200名近い方々にご参加頂きました。そうして機運を高めていくことで、義姫再評価を山形市仙台市にも働きかけていきたいと考えています。義姫に対する誤った印象というレモンも、レモネードに変えることができると信じています。

諏訪洋子会員と伊藤嘉高代表

(2016年3月19日、カフェレストラン・アランフェスにて、聴き手・構成:伊藤嘉高)

第4回ミーティング開催のお知らせ「ここが問題、『TPP正式合意』」

第4回ミーティングを「ここが問題、『TPP正式合意』」と題して3月27日(日)に開催します。

TPPは、日本と米国を中心とした「環太平洋経済連携協定EPA)」の略称で、日本は、アベノミクスの一環として参加し、2015年10月、交渉参加から2年以上を経て大筋合意に至りました(本年、2月に正式合意)。

これにより5年程度をめどに段階的に関税が撤廃されることが決まるなど、世界のGDPの4割を占める巨大経済圏の誕生により、新たな貿易ルールのスタンダードとなることが期待されています。

他方で、その全貌はまだ明らかになっておらず、TPPにより、国内農林水産業が打撃を受けるとともに、私たちの暮らしや社会に大きなリスクをもたらすとの懸念も広がっています。

そこで、第4回ミーティングでは、石川敬義会員(事務局長)に講演頂き、その後、山形県の農業や産業の今後などについて、参加者のあいだで議論を深めたいと思います。

ご関心のある方は是非ともご参加ください。非会員の方も、当日、会員登録(無料)いただければ参加することができます!

ここが問題、『TPP正式合意』画像

主な講演内容

Ⅰ.TPP交渉の背景

  1. 米国政府の日本政府に対する「年次改革要望書
    さながらアメリカ政府の奴隷の日本政府/やがて日本は米国の強欲に支配される国に ほか
  2. 「TPA」報道は「TPA」違い
    実質的な権限は議会にあるアメリカ/アメリカの製薬業界が猛烈に反発
  3. ラチェット規定、地理的表示保護、スーパー301 条、ISD条項
    後戻りできない協定内容、「米沢牛」ブランドも危うい/憲法が保障する地方自治を破壊するISD条項 ほか
  4. 予想外の非関税範囲の幅広さ
    数10 万項目もの商取引を官僚が独断で決めてよいのか/シンガポールのような国にしてよいのか ほか
  5. TPPの本質は「経済のブロック化による世界経済戦争」
    米国戦略主導に変質したTPP精神/ブロック間の経済戦争へ導くTPP ほか
  6. 「TPP対策」の財源は
    社会保障を置き去りにするTPP ほか
  7. TPP対策は

Ⅱ.農林水産の分野

  1. 「重要5品目」の国会決議は守れたのか
  2. 林業と漁業は壊滅か
  3. 重要5品目のコメ
    備蓄米に回す原資は税金だ/畑作による地域特産品開発こそ生き残る道 ほか
  4. 安全安心
    遺伝子組み換え農産物生産国の惨状を知れ/緩すぎる日本のGM食品規制 ほか

Ⅲ.非関税障壁

  1. アメリカの狙いは金融、投資、保険、サービスの開放
    TPP前倒しの郵政民営化、農協改革 ほか
  2. 医療制度が破壊される懸念
    混合診療」が広がり薬価が高騰する恐怖 ほか
  3. 労働
    ILOの中核的労働基準の2条約を批准していない日本 ほか
  4. 電気通信
    リスクとチャンスが併存 ほか
  5. 電子商取引
    さらに危険、「国境を超える情報移転」

など

開催日時と場所のご案内

  • テーマ:ここが問題、「TPP正式合意」
  • 日時:2016年3月27日(日)13時30分より
  • 場所:やまがたまなび館(地下「交流ルーム8」)
    山形市本町1-5-19(旧第一小学校跡)、TEL 023-623-2285
  • 駐車場:同館西側の道路(北から南へ一方通行)を隔てたところに40台収容の無料駐車場あり。満車の場合はさらに南の山形市民会館地下駐車場(有料)あり。
  • 講師:石川敬義氏(政策研究ネットワーク山形・事務局長)
  • 会費:無料

ご関心のある方は是非ともご参会ください。非会員の方も会員登録(無料)いただければ参加することができます!

会員紹介(第4回)堀川敬子会員(天童NPO支援サロン設立者・山形県まちづくりサポーター)

第4回会員紹介は、天童NPO支援サロン設立者で現在は山形県まちづくりサポーターの堀川敬子会員です(2015年6月7日インタビュー)。まちづくり系NPOの先駆けとして、行政の補完団体にならないNPO、市民活動の実現に尽力されています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が集まって成り立っています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

堀川敬子会員プロフィール
ほりかわ・けいこ。主婦。山形県まちづくりサポーター。天童市生まれ。東京のIT企業勤務を経て、家業の青果物卸業に従事する傍ら、天童青年会議所の地域づくり事業や、「平成鍋合戦」(天童青年会議所青年部主管)の実施に参画。2001年にNPO法人「天童NPO支援サロン」を設立し、「コミュニティ・ビジネス」の創出及び啓発活動や、「国際ジャズフェスティバル in 天童」「ふるさと山形塾」など各種事業に取り組む。2008年、結婚を機に山形市へ転居、2009年に天童NPO支援サロンを解散、2011年、男児出産。

東京でのIT企業勤務を経て故郷、天童へ

堀川敬子会員(山形県まちづくりサポーター)

実家が青果物の卸業(株式会社ながせ/フルッティア)を営んでいたので、両親は忙しく、お手伝いさんと過ごす時間が多かったですね。だから、親との関係もべたっとしておらず、わたしのやりたいことに口を出すこともありませんでした。NPO立ち上げの際も「やりたくてもできない人がいるのだから」と応援してくれましたし、今日までの人間関係に築き方につながっているように思います。

高校を卒業した後、東京の大学に進学し、バブル景気の真っ只中、ITベンチャー企業に就職しました。でも、故郷への思いはずっと抱いていたんです。山形新幹線も開業し、情報インフラも発達し、東京と山形の距離も近づいていたので、あえて東京にいることもないなと思って、26歳の時に帰郷し、家業を手伝うことにしました。

専用の請求書発行システムをプログラミングしたり、会社のシステムを管理していたエスアールプランニングでも働き、地元の知人が手がけていたコミュニティ雑誌の編集や制作も担当したりしました。

fruttier.com

「天童NPO支援サロン」立ち上げ―「仕方ないからうちがやる」

仕事を通してさまざまな業種や地域の人たちに接するうちに、だんだん市民団体や活動に興味を持つようになったんです。最初は軽い気持ちで天童商工会議所の青年部や青年会議所に顔を出していたんですね。青年会議所では3年間活動して、時間をかけて議論してさまざまな提案が行われましたが、なかなかまちを変えることは難しく、なぜだろうという疑問が生まれるようになりました。

そうしたなか、2000年に県のNPO支援センターの会合に参加した際、大川健嗣先生たちから「これからはNPOの時代だ」という話を聞きました。当時は「NPOって儲かるの」くらいの認識でしたが、NPOは社会に利益を生み出す存在であるということを学んだんです。そこで、一念発起し、2001年に「天童NPO支援サロン」を立ち上げることになりました。

藤工業の工藤さんに代表を務めて頂き、出羽桜酒造の社長さんやふれあい天童の加藤由紀子さんにもメンバーになってもらい、人も集まりました。実家の店のスペースを間借りしたのですが、とはいっても、立ち上げ当時は、どこから手を付けたら良いのか……。飲んで話をするなかでアイデアを出し合いました。天童高原の自然を活かす懇談会を開催したり、天童の国際JAZZフェスティバルに実行委員として参加したりしました。

 2002年10月から村山総合支庁のコミュニティ・ビジネス支援事業を受託してから、地域づくりコーディネーター養成講座(ふるさと山形塾)を開催したり、むらやまコミュニティサロンを開催したり、大川塾を開いたり。そうした活動をするなかで、行政からさまざまに声がかかるようになりました。

当時は、まちづくり系のNPOがほとんどなく、きちんとした結果の出せるところも少なかったので、私のところに意見を聞きに来たり、検討会などの委員になってくれという話が来るようになりました。行政とべったりだったわけではなく、「仕方ないからうちがやる」といったスタンスで、来るもの拒まず、話があれば何でも引き受けました。

まちを変えるには―行政とのほどよい距離感が大切

堀川敬子会員(天童NPO支援サロン)

そうしているうちに、行政のなかも見えてくるようになりました。結局は人なんですよ。もちろん政治も必要なことですが、企画したり立案したりするのは行政の職員なので、担当者がいかにしっかりしているかで、まちが全然違ってくることが分かったのです。とくに、県の「やまがた集中改革プラン」の推進に関する第三者委員のときに、担当職員の方に接して、その思いを強くしました。

だから、社会を変えたいと思ったら、いかに行政の内部のなかで本当に実力のある人に話をもっていけるかどうかが大切なんです。そこで、NPOの取り組みも、そうした人たちをつなぐネットワーク作りとファシリテーションを重視したわけです。

考えてみれば、わたしの活動の原動力も、やっぱり、人との出会い、人とのつながりなんです。2003年から観光農業のプロデューサーとして有名な寒河江の工藤順一さんの秘書のようなことをさせていただいた時期がありました。工藤さんは行政に対して素で思ったことを言うような人なんです。でも、行政の職員も自分の担当にこだわらず熱意があり汗のかける人であれば、そうした人同士の出会いがまちを変えていくきっかけになるんです。

www.mlit.go.jp

行政に対峙して批判することも大切ですが、実際に行政を変えていくのは、押したり引いたりする、ほどよい距離感によって作られる関係なんですよ。行政の下請けではないパートナーシップのあるべき姿だと考えています。工藤さんとの出会いによって、そのことを実感させられ、わたしもまた変わっていくことができたのです。

新しいつながりの形成に向けて

心残りもありましたが、結婚して山形に移り住んでから、時間がなくなり、NPOもたたんでしまいました。やはり、土日や夜の活動が多いので、結婚・出産すると、アクティブに動けなくなったんです。

出産したときに思ったことですが、普段生活しているだけだと気づかないことが多くて、周りにも知っている人がいないんですね。昔は、ごちゃごちゃした人間関係のなかで生活していたので、いざというときにもどこかに助けてくれる人がいて、孤立してしまうことはなかった。

だから、最終的には人がつながることがまちづくりであり、安全と安心につながることなんだと思うんです。たとえば、会社員としてのつながりだけでなく、地域の多種多様なコミュニティをつくっていくことが大切です。

いまは子育て真っ最中ですが、家の蔵にはいろいろな人が集まってくるので、そういう場にまだ小さい息子も参加させて、勉強してもらっています。今後は、もっと地域に開かれた子育ての場になっていけばよいと考えています。

もちろん、今でも、チェリアの会などの活動で意見は出し続けています。しゃべれば必ず誰かが耳を傾けてくれます。子育てが一段落すれば、同じような立場にある女性たちも巻き込んで、これまでに培ったネットワークも活かして、新たな人のつながりを作り出していきたいと考えています。

もちろん、気が合わない人と無理して付き合うことはしなくていいと思いますよ。義理と人情がNPOです。一時期でも一生懸命やって付き合っていれば、多少離れても、つながりは保ち続けることができます。ひとつのきっかけを無駄にしなければ、人は変われる。そして、本人が変わると、その周りも大きく変わっていくんです。

堀川敬子会員と伊藤嘉高代表

(2015年6月7日、堀川家の蔵にて、聴き手・構成:伊藤嘉高)