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政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第7回)池田昭会員(元山形警察署長、元八幡町助役、山形産業資源調査研究所所長)

第7回会員紹介は、山形産業資源調査研究所所長の池田昭会員です(2016年10月30日インタビュー)。警察官や助役としての経験を踏まえ、土地利用規制が既存産業の保護による地域経済停滞につながっており、地域経済再生(地方創生による人口増)のためにも、自治体首長による土地利用規制の緩和・解除を訴えておられます。

本会は、現在、山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略について批判的検証を進めていますが、池田会員は、上記の観点から、山形市人口30万人ビジョンに賛同されるとともに、人口40万人減を当然視した県の計画の見直しを訴えています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
いけだ・あきら。1927年2月酒田市生まれ。1945年から山形県警察警察官となり、運転免許課長、米沢警察署長、交通部長、鶴岡警察署長、警備部長、山形警察署長などを歴任。その後、1983年から1986年まで八幡町助役を務めた後、行政書士二級建築士の資格を取得し、行政書士事務所を開設するとともに、有限会社イケダホーム代表取締役に就き、現在に至る。また、山形産業資源調査研究所所長として、県内各地の経済振興策を提起している。

竹槍訓練に参加しなかった少年時代

池田昭会員(1)

生まれは、鳥海山山麓の日向村。今でいうと、酒田市と合併した八幡町だ。農家の三男坊でね。小学校の成績は上位で、四年生からは級長を務めていたんだけど、当時の竹槍訓練などは、馬鹿らしくてな。理由をつけて休んでいたのよ。当時から合理的にものごとを考えるところがあったんだな。

青年学校に進んでからもトップの成績でね。農家を継ぐ必要もなかったから、進学を希望していた。お金はなかったけれども、校長推薦で中島飛行機がお金を出してくれる話になっていたのよ。

ところが、長男と次男が徴兵されてしまって、家の手伝いをしなければならなくなってね。しかも、1年の約束だったのに、当時の大火で家が焼けてしまい、その再建の借財を返さなくてはならなくなった。結局、4年かかってしまったのよ。

19歳になって、ようやく解放されて、当時、募集のあった少年警察官になったというわけだ。

拳銃自殺未遂事件を起こした暴虐署長

新任時代

警察の組織は、軍隊と違って、上官の命令が絶対というわけではなかった。入職は終戦後だったので、白は白、黒は黒と言える時代になったのもあるな。ただ、戦地帰りの上司のなかには、軍隊の文化が染みついた者もいたよ。でも、10人中8人はまともだったな。

24歳の時に、小国地区警察署に警備主任として着任した。庁舎には町警察も同居していたんだけど、その町警察署長の警部がとんでもない男でね。自分の処遇が不満で、毎日、署長室に部下を呼びつけ、立たせたまま、延々とののしり続ける部下いじめが日課になっていたのよ。

ある夜、当直勤務で火鉢を囲んで仲間と雑談していたところ、町警察の巡査が外から帰ってきて、署長に電話をかけているわけ。すると、盛んに電話の前で、すみません、すみませんと頭をさげていた。またかとおもい、電話が終わったところで、あまり気にしないようにと声をかけたのだけど。夜明けに官舎前で抗議の自殺をはかってしまった。

一か月ほど入院して回復はしたが、拳銃使用が規律違反であるとして処分されることになってね。公安委員と署長からなる懲戒審査会が開かれたんだ。私は、元気のよい若手町署員と語らって、事件の原因が署長のいじめであることを知らしめるために、その署員に弁護人として出席してもらったのよ。警察の懲戒審査委員会に弁護人が出るなどというのは、前代未聞だったな。

公安委員も驚いて、審査は紛糾した。けれども、結局、「理由はどうであれ拳銃を使用した責任は懲戒免職以外にない」ということになった。でも、それでは、退職金がもらえないわけだ。そこで、今度は、町長と相談し、町から相当額の見舞金を出してもらうことにした。最後に、私の家で送別会をして、家内の手料理で、励まし、ふるさとの鶴岡に送ったのよ。

時代遅れの検事総長通達を変更
―規則にとらわれてはならない

28歳の時、山形署交通主任(警部補)の時の話になるけれど、当時は、モータリゼーションが進んで、仕事量が膨れ上がっていた。ところが、交通違反事件の送致書類が旧態依然の複雑過ぎたもので、大きな支障をきたしていた。そこで、5枚くらいの一件書類を一枚に集約し簡素化した様式を考案して、山形地検の岡崎次席検事に持ち込んだんだ。

送致書類様式は最高検検事総長制定にかかわるものだから、改正は困難で、改正を上申しても、決まるまでは2年かかると言われていた。ところが、岡崎次席検事は「試験的実施」として、この様式の事件送致を受け入れると決断してくれたのよ。これが、全国に広まり、2年後に検事総長制定改正様式の原型にもなった。

規則はもちろん重要だ。でも、時代の変化に応じて、改めるべきは改めていかなければならない。これは、今日の土地利用規制についても同じだぞ。「法律で決まっているから」で停止してしまっては、何も前に進まない。

他にもな、当時は、運転免許試験受験者が上山の試験場に殺到していた。ところが、学科試験を受けるための教材が500頁ほどの道路交通法という法令集以外に無かったわけ。だから、学科試験が難関だった。そこで試験に出そうな問題とその答えを80ページにまとめた「自動車運転免許受験者合格の手引き。問答式道路交通法、試験場コース図解入り」を編集し、印刷実費の一冊20円で、交通安全協会から発売した。

これが爆発的に売れてな。受験者はもちろん、自動車のセールスマンも、まとめて100冊200冊と購入し、車を売るときに「これ一冊で学科試験は大丈夫」と活用したんだ。短期間のうちに何万部も発行し、これこそ時代のニーズに迅速に適応した取り組みであるとマスコミにも絶賛されたのよ。この本は、後の交通教本に活かされているよ。

第一次安保闘争で検挙者ゼロ人―規則には例外がある

警備課長時代

1960年(33歳)、警察大学校を卒業しての新任地が山形警察署警備課長だった。警備部というのは、情報機関だから、全県の政治行政の動きが入ってくる。表に出たものとしては、複数の県内市長の汚職事件、某社の社長交代劇なんかもあった。とんでもない話ばかりだぞ。

とはいえ、一番思い出深いのは、第一次安保闘争への対応だな。着任早々、毎日のように500人から3,000人規模のデモがくりかえされていてな。ただ、当時の私は、「この反対闘争は一過性のものであり、前途有為の学生たちを、検挙して、職業革命家の道に追いやってはいけない」と考えていた。

だから、闘争をできるだけ合法的におこなわせることが肝要であると考えた。つまり、公安条例による届出を確実におこなわせることだ。そこで、学生の指導者と私が直接接触して、必ず届出を行うこと、不法な暴力行動を慎むことを説得することにした。学生たちは、はじめは反抗的な態度をとっていたけれど、次第にこっちの気持ちも理解して、素直に説得をうけいれるようになってな。

山形の学生運動

ところが、公安条例ではデモの届け出は72時間前に行う事と定められていた。学生たちも熱が入り、「明日、デモをするぞ」となることもあるわけだ。それでは、届出が間に合わない。そんな時には、その情報を私がキャッチすると、学生のところまで行って、届け出を出させたんだ。当時の原田署長が、自分の責任で受理すると言ってくれて、公安委員会も理解してくれた。結果、年間百数十回に及ぶデモで、無届はひとつもなかった。

周辺の他県では、無届デモが相次いで、渦巻きデモで警察官との衝突が頻発し、大勢の学生が検挙されて、退学処分になっていた。検挙逮捕退学者ゼロの記録は全国的にも例が少なく、人に優しい警察運営として、生涯最高の思い出だな。

自動車学校指導員資格試験への対策
―厳しすぎる行政規則は誰のためか

次に、1970年(43歳)の運転免許課長になったときの話をしよう。モータリゼーションもいっそう進んでいて、自動車学校で指導員が足りなくなって、悲鳴をあげていたのよ。指導員の資格認定は警察の仕事で、厳しい試験を行っていた。合格率は10%に満たなかった。

もっと指導員を増やして欲しいという社会の強い期待と要請があったにもかかわらず、それに背をむけて、落として楽しんでいるに等しい態度をとり続けていたんだ。その結果、汚職事件も発生する。そういうことなの。

そこで、私は、免許課長就任と同時に、改善に取り組んだ。指導員資格受験者を免許センターに集めて一週間の研修を行い、十分実力をつけさせてから、最後に試験を行うことにしたのよ。その結果、合格率が70%を超えて、これを数回繰り返して全県の指導員を80人から160人に倍増させた。その結果、運転者も大量養成することができたわけだ。

また、当時は、運転者再教育用の実地訓練施設の土地もなかった。そこで、立谷川の河川敷を利用しようと考えたんだ。県の河川課長に赴き、申し入れたところ、課長は法令集を取り出し「規定では、河川敷を活用できる事項に自動車の運転練習はないので、利用できない」というわけよ。

ところが、規定をちらりと見ると「原則として」と書いてある。すかさず「例外があってもよいのではないか。この規定が施行された頃は車社会でなかったが、情勢が変化している。また、立谷川は山形県民の河である、管理を建設省に任せているに過ぎない。したがって、県民の多くが幸せになるための利用を、建設省が拒むはずがないのではないか」と訴えた。

さすが、東大工学部出身の若い河川課長は、すぐに共鳴して、それでは建設省と折衝しましょうと協力を約して、てきぱきと手続きを進めて、最後に私を上京させて建設省幹部との協議に持ち込み、了解を得ることができた。

山形警察署長時代

他にも、鶴岡署長時代の交通安全協会長の協会私物化の是正、山形署長時代の公開捜査の原則化による検挙率80%の達成、花火大会に際しての駐車禁止規定の解除、蔵王街道の深夜除雪など、さまざまな取り組みを行ってきた。

要は、社会情勢の変化に対応して、公正性を保った上で、柔軟な対策を打つことが大切だということだ。今も、あらゆる面で同様の不合理な事案が山積している。「規則だからだめ」というのは怠け者の逃げ口上だ。現実の身近な矛盾に目を開き、勇気を持って大胆に改善しなければならんのよ。

土地利用規制の問題に直面する―八幡町助役として

退官後は、生まれ故郷の八幡町助役に転じることになった。前町長が八幡町立病院長とともに、町を私物化しているとの批判があってな。そこで、当時の助役が町長選に立候補し、当選したんだ。ところが、町議会は前町長派の議員が多数を占めているものだから、新しい助役が決まらなかった。そこで、どちらの派閥にも属さない、私に声がかかったということなの。

しかし、助役に就いてみると、規則主義による思考停止という警察官時代とまったく同じ問題に直面した。「何を馬鹿なことをやっているんだ」という毎日だった。

たとえば、一条小学校の建て替え時期でね。その校舎建設の予定地が土地改良補助を受けた土地だから8年間転用できないと県関係職員が言うわけ。7か月も抵抗するもんだから、教育長が手をやいていた。

そこで、法令集を取り寄せ検討してみたら、実際は農政局長通達で、民間で転用した場合は補助金を返還させるというだけのものだった。つまり、町の事業に転用するなら、補助金は返還しなくともよく、転用も禁じられていないのよ。そこで、県農林水産部長まで持ち込んで一挙に解決したんだけれども、庄内支庁と県農林関係職員は誰もその通達を見ていまかった。とんでもない怠慢だった。

それでよ、助役に就任するときには、鳥海山の観光開発を任せると言われていたんだ。鳥海山東側は冬の季節風の関係で無風の豪雪地帯だ。しかも広大な斜面があるので、スキーをやるにはもってこいの土地だった。他にもゴルフもできるし、ホテルの土地もあるしで、スポーツ産業の国際的メッカにもなれると考えて、具体的な計画を立てた。

西武でも東武でも、やってくれるところであればどこでもよいから、始めに地元資本とつながりのある東武資本を誘致しようとしたが断られた。蔵王とのパイの奪い合いになると考えたんだ。そこで、西武と交渉したところ、西武鉄道堤義明氏と直接会うことができて、全面協力を約束してくれたんだ。しかも、スキー場のほか、ホテル、ゴルフ場、奥山林道の改修も、西武で資金を出してくれるという好条件でな。当時、第三セクターで事業をおこして、失敗して、今は、借金まみれになっている自治体があるけれど、そんなのとは違う、有望な計画だった。

ところが、当初は、県の許可があれば、翌年にも着工できるという計画だったのに、県の自然保護課が、延々と計画の変更、変更を繰り返し命じたんだ。そのあげく、13年目に「やめろ、やめないとただでおかないぞ」と環境部長が、町長と担当室長を恫喝して、町長も態度を豹変させてな。計画が全面撤回になってしまった。

表向きの反対は環境保護ということだけれども、裏では観光資本をめぐる政治的な争いがあって、政治家が暗躍していた。板垣知事の次に就任した高橋知事は許可する方向で動いてくれていたけれど、最後に力尽きてしまった。

実際、環境保護の象徴とされたのがイヌワシだけれども、私が助役当時は、鳥海山全体で拾つがい二十羽生息していたのに、結局、何もせずに放置しているものだから、山が荒れ、ウサギや山鳥がいなくなり、イヌワシどうしで殺し合い、一つがい二羽のみになっているよ。

西川町の大井沢でも似たような話があって、その計画はまだあきらめていないけれども、それはともかく、私は一期で助役を辞することになった。というのも、町長は、年間、会議出張で百三十八回も出かけておきながら、その内容については一回も伝達なく、要は、物見遊山をしていた。戒めても聞き入られず、次期の町長選への協力を拒否して、助役を退任したというわけだ。

ただ、それで余生を過ごすという発想にはならなかった。『60歳からの生き方』という本がベストセラーになっていて、それに影響を受けた。警察官時代には「定年後に雇ってもらおう」などと媚態をさらした生き方をしてこなかったから、自営を考えた。それで、行政書士宅建二級建築士の資格を取って、行政書士事務所を立ち上げて、イケダホームの取締役にもついて、農園も経営することにした。その傍らで、土地利用規制をめぐる問題も提起しているのよ。

土地利用規制による既存産業の保護と衰退

ここで、土地利用規制について、改めて話しておこうか。山形県には、平坦な土地(可住地)が35万ヘクタール(10億坪)あるけれども、うち85%が農業振興(農振)地域に指定されており、農業以外の土地利用が規制されている。

それがすべて農業に使われていればまだしも、実際には、平坦な山林原野などが16万ヘクタールあり、農地についても、耕作放棄地・休耕地など、使われていない土地が4万ヘクタールもある。つまり、合計20万ヘクタールが、平坦な土地ながら、ほったらかしにされている。実際に、宅地や企業が立地しているのは、可住地のわずか8%にすぎない。それでいて、「山形には土地がない、土地が高い」といっている。

どうして、これだけの土地が農振に指定されているのか。農振法が制定されたのは1966年だけれど、食糧自給率の維持のために、将来的な土地改良事業予定地を確保するために、農振指定がなされたのよ。当時の農林省からは、「将来、ブルドーザーでならして農地に使えそうな土地はすべて農振に指定せよ」との指導があり、平坦な山林原野も含めていっきに農振指定された。

そして、この土地改良事業差配が政治家の利権になった。山形でも、かつて、ある政治家が農業団体役員として総会に出るだけで多額の報酬を得ていて、しかも、会員を水増しして補助金数千万円を詐取していたことが内部告発され、政府の要職を失うということがあっただろう。実は、同様の事件が県内他の団体にもあり、県はその対応に苦慮したんだ。

けれども、農振法制定から40年が経過し、水田の構造改善事業などの土地改良事業がほぼ終わり、米の生産力は高まり、逆に、今や米余りで、開田も全面禁止になっている。ところが、過大な農振地域指定はそのままだ。しかも、山形では、ほとんどが、最も規制の厳しい一種指定になっている。

その結果、平坦な土地で空いているのに、宅地開発も行えず、事業用地としても利用できず、農家もまた、六次産業化で食品工場を建てたいと思っても認めらないという事態になっている。都市計画における市街化調整区域についても同じことが言える。実際の例をいくつか紹介すると、こんな具合だ。

  • 農業協同組合が支援して、山形市上山市に、農家の直売店舗を出させようとしたが、許可がおりず、断念。
  • 県庁周辺に商業地域がない。
  • 上山市藤吾温泉では、地元農家が集まり、温泉を掘り当てたにもかかわらず、19年間、その利用が許可されず。
  • 天童市の音響メーカーが本社の隣地に工場の建築を計画したが許可されず。
  • 山形市の身障者の団体が会員所有の農地の提供を受けて自力で作業所を建設しようとしたが許可されず。
  • 庄内町で、最上川沿いの耕作放棄地に風力発電機を造りたいとの企業があるのに農振地域を理由に許可されず。
  • 百目鬼温泉、保養センターの許可に5年、塩製造工場許可まで3年かかった。
  • 自治会館に間借りしていた健康保険組合連合会が、独自の事務所建設を企画したが、山形市に用地が確保できず、寒河江市に移転。

さらに言えば、こうした厳しい規制が、新たな政治家への賄賂を誘発している。つまり、選挙にからめて、ことさらにもったいつけたり、「口利き」の見返りを求めるなどといったことだ。実際、多くの疑獄事件が、この土地利用に関する許可をめぐって発生している。逆に、既存産業の保護のために、政治家が働きかけて、新たな土地利用を許可しないということも起きている―心ある自治体職員が、このことを教えてくれている―。上の事例のなかにも、そうしたものがある。

土地利用規制は首長の権限で解除できる

池田昭会員(2)

しかし、実際のところ、首長の権限で、経済情勢の変更に応じた農振解除や変更はいつでもできるのよ。第七条に「経済事情の変動その他情勢の推移により必要が生じたときは遅滞なくその指定した農業振興地域の区域を変更し又はその指定を解除する」と規定されている。その上で、民間の事業を受け入れることにすれば良いだけのことだ。

実際、天童市では、芳賀地区70ヘクタールの農振を解除して、そのかなりの部分を準工業地域に指定し、企業を誘導し、職住近接の複合都市街を造り、多くの雇用を確保している。上山市長も、反対を押し切って、みはらしの丘準工業地域に大型商業施設の立地を認め、用途指定を近隣商業地域に変更している。山形市でも、新市長が誕生し、人口30万人ビジョンを掲げ、土地利用規制の見直しを明言している。

役人のなかには、「先頭走って躓くな。びりでは目立ち過ぎる。びりから二番目、三番目のところをトコトコ走ってゆくのが、役人のいちばん上手な生き方である」などと吹聴する者がいる。山形県も、土地利用規制問題について何も知らない人口問題研究所の推計を鵜呑みにして、人口112万人が、将来79万人になるという総合戦略なるものを発表している。

ところが、この計画に県首脳も、代議士、県議、マスコミも、なんの批判も反応もしない。呆れて言うべき言葉なしだ。県民所得が東京の約半分なのに、そんな県の職員にはその何倍もの給与報酬を税金で払っているのだから、バカらしくなってしまう。もちろん、「農振はおっかなくて手を出せない」と本音を打ち明けてくれる「心ある」役人もいる。だから、あとは、新たな山形市長のように、勇気を持つことだ。

もちろん、いたずらに農振を解除して、民間に任せれば、乱開発を招くだけだという批判はあるだろう。しかし、都市計画区域内では、準工業地域に指定するとともに地区計画を策定することで、乱開発を防ぐなど、手法はいくらでもある。規制があるから何もやらないというのが、一番の悪だ。

コンパクトシティの意味をはき違えて、何百億円もかけて市街地再開発をやっているが、それで誰が得をしているのか? 詳しくは、私のホームページを見てほしい。宅建協会五十周年記念論文優秀賞を受賞した私の論文など、農振解除による具体的な産業振興を提案している。

政策研究ネットワーク山形に求めること
―自己満足で終わらない政策研究が必要

山形にもいろいろな研究会があるけれども、すぐれた成果を上げているところはないな。体制批判を避けて、枝葉末節ばかり議論しているからだ。勉強にはなるけれども、社会の変革にはつながらない。問題の核心をついた政策研究が必要だ。それがなければ、自己満足で終わってしまう。

県民の最大の関心事は、地方の人口減少、産業衰退の問題だろう。どうして、人口が減っていくのか。これまでに話したように、不合理な土地利用規制により、既存産業が保護され、新たな産業が生まれず、その既存産業が衰退し、働く場が減っているからだ。

だから、この問題点を認識した民間マインドを持った人材にもっと広く参画してもらうことが必要だ。そのうえで、実践的な研究を行うこと、さらには、そうした研究によって社会にどのような貢献がなされたのかという事後検証も必要だろう。大いに期待しているよ。

(2016年10月30日インタビュー:聴き手&構成:伊藤嘉高)

池田昭会員&伊藤嘉高会員