政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第6回)齋藤直希会員(障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表)

第6回会員紹介は、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」代表の齋藤直希会員です(2016年9月18日インタビュー)。先天性の重度障害者でありながら、さまざまな「社会の障害」をも乗り越え、普通高校、大学で学んだ経験と専門の法律を土台に、障害のある人とない人との相互理解に基づく政策研究の場を作っておられます。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まって、形の人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

齋藤直希会員プロフィール
さいとう・なおき。1973年7月上山市生まれ。県立上山養護学校、県立ゆきわり養護学校を経て、肢体不自由者でありながら、県立山形中央高校に入学。同校卒業後、山形大学人文学部に進学し、法学を専攻し、在学中に行政書士の資格を取得。現在は、障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表、ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)・代表。

厳しい「訓練」と養護学校の生活

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たいていの子どもは、生まれてから半年までには首がすわるそうですね。ただ、私の場合は、なかなか首がすわらなかったようです。やがて、「脳性麻痺ではないか」という話になり、2年ほどの判定期間を経て、79年に障害者認定されました。

自分が「他の人とは違うな」と自覚し始めたのは、3~4歳の頃です。「訓練」がきっかけです。極わずかの親族のなかには「障害者を外に出すな」ということを言う者もいたのですが、母が、そうした反対を文字通り「死ぬ思いで」振り払って、訓練に連れ出してくれていました。ただ、当時の訓練は、とにかく「健常者に近づくこと」が目標でした。周りの人も母もそれが正しいことだと思って、厳しい訓練が行われていました。

子どもとしては、そうした訓練を受けるなかで、「どうして自分ばかり」という思いを持つようになったわけです。私には姉がいて、その姉はそうした訓練をしていませんでしたし、障害に理解のない極わずかの親族からは人間扱いされていなかったので、「自分は他の人とは違うんだ」と思うようになったんです。

ただ、とはいっても、肢体不自由者の通う上山養護学校(現・ゆきわり養護学校)に入学すると、周りの同級生3~5人は、同じように障害のある子だったし、程度の差はありましたが、周りの大人も障害のことを理解してくれる人たちに囲まれて生活することになりました。なので、「他の人と違う」ということを過剰に意識して、卑屈になることはありませんでした。

たとえば、9歳のころに、給食をボイコットしたことがあります。給食の前が体育の時間だったのですが、ドッジボールを片付けることになって、先生から「あと3分で片付けましょうね~。できなければ、給食抜きだよ~。約束だからね~。」と言われたんです。だから、一生懸命片付けたのですが、1分ほど遅れてしまいました。だから「給食抜きか」と思っていたら、先生が「冗談だよ~。言葉のあやだよ~。給食を食べなさいよ~。」と言うんです。

そこで、当時“マセガキな”私は頭に来たんですね。「ふだん『約束をしたら守りなさい』と教えるのは、先生の方じゃないですか。そんな先生の方から約束を破るの?先生は『約束を破ること』をすすめるの?」と食ってかかったんです。そんな具合に、誰とでも議論をするのが好きな、よく話す人間と見られていました。養護学校には寄宿舎もあって、だから、養護学校の先生は、親や兄弟のような存在でもあったんです。

友との出会いと普通高校進学の決意
―「死なない限り、何でも我慢できる」

ゆきわり養護学校

人生の転機になったのが、小学4年の10歳のときに起きた両股関節脱臼です。主治医の判断で手術をしなければならなくなったのですが、その結果、あぐらを組むことすらできなくなってしまいました。これまで一生懸命、訓練してきたのに、それが無駄になり、さらに、もうこれ以上、訓練しても、身体の機能は良くならないという状態になってしまったのです。

「両股関節」という観点で考えると主治医の判断は決して間違ってはいなかったんですね。ただし、「脳性麻痺障がい児の全身の運動機能」という観点でいえば、他に様々な考え方もあることが、後々になってわかりました。とはいえ、「脳性麻痺」に関する医学的研究も今とは全く違うので、「時代のいたずら」と、今の私は理解しております。

ただ、その時、私は療育訓練センターに入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に転校することになったんです。そこでは、同学年の結城君と佐藤君も入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に在学していました。一人は元々健常者で手術が必要になり、一人は乳幼児期の脳幹障害で入所していました。この二人ととても仲が良くなりましたが、お互い連絡先を交換することもなく、治療を終えた私は、療育訓練センターを退所して、元々の上山養護学校の方に戻ったわけです。

ですが、そのような形で一度別れた結城君と佐藤君ですが、私が中学2年に上がるときに、上山養護学校とゆきわり養護学校が合併することになり、不思議な運命に絡まって、みんなと再会することになったのです。そのとき、「一緒に普通高校に行こう」という話を2人に持ちかけられたんですね。小学4年生のときの結果とはいえ、体はこれ以上良くならないのだから、あとは勉強するしかないと決意しました。

このことを母親に相談したところ、こう厳しく言われました。「気持ちは良く分かる。でも、遊び行くところじゃないんだぞ。どんな辛い目にあうか分からない。廊下で授業を受けさせられるかもしれない。覚悟はあるのか」と。

当時の私は、学校の始業前の1時間、終業後の1時間、人よりも早く登校し、遅く下校して、春・夏・秋はもちろん、真冬も暖房のかからない冷え切った体育館や部屋等で訓練をしていたので、「死なない限り、何でも我慢できる」と思っていました。だから、「母親が介助してくれるなら、大丈夫、平気だ」と答えたんです。

とはいえ、養護学校の先生も保守的な先生が多かったので、説得するのが大変でした。まずは、学力面で心配されたので、アマチュア無線4級をとって、英検3級を取りました。さらに、幸運なことに、読書感想文全国コンクールで山形県最優秀賞受賞、全国大会についてノミネートされる事になり、全国大会で3~4位に相当する全国学図書館協議会長賞を取りました。

www.dokusyokansoubun.jp

もうひとつ運の良かったことがありました。養護学校の校長として新たに石澤先生が赴任なされたことです。石澤先生は、私たち―とくに母親―が真剣であり、口だけでないことを理解してくださり、高校側との交渉を引き受けて下さいました。

というのも、当時は、高校入試を受けて、合格点が取れれば、それで入学させてくれるというわけではないからです。地域によっては、公立私立を問わず、障害のある者が高校入試を受けたり高校に入学することについて裁判になり得た時代だったのです。

そのため、模試を受けて学力があることを示す事はもちろん、受験後の「入学」「通学」その他の学校生活に関する事柄において、あらかじめ交渉をして許可をもらわなければならないのです。ちなみに、私立との併願もできませんでした。校長先生が言うには、「両方受かれば、押し付け合いになるから」です。

ちなみに、現代においても、複数の関係者から、「介助を必要とする重度障害児の生徒さんが、養護学校や特別支援学校から直接、普通高等学校に進学することの『壁』は、まだまだ高いよ」という話を、よく耳にしており、今の私は、複雑な想いにかられます。

見下す先生、励ます先生

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当初は、学力的に入れそうな、とある公立の進学校を希望していました。模試は、鉛筆を口で取り、不自由な手に運ぶような状態であるにもかかわらず、周りの人と同じ試験時間しかありませんでした。そこで、母親は「8割書いて、それが正解であれば、400点はとれる」と言うわけです。それを実践して、実際に、400点をとることができていました。

学力的には問題ないと考えて、希望していた進学校を、養護学校の校長先生と母親が訪問したのですが、そのとき、保健の先生から「なぜ、あなたのような生徒が、うちの学校を選ぶのか」と見下したものの言い方をしたんです。 帰りに、別の先生が謝ってくれましたが、「とてもくやしかった」と母親は養護学校の校長室で号泣したそうです。

ところが、養護学校の中でそこそこの責任のある先生なのでしたが、その先生お一人だけでしたが、そのことを知ると「当然だ。障害者はみじめだ」というのです。自分たちの決意を応援してくれる人は数多くまでとは言えないかもしれませんが、少なからずおりました。しかしながら、「判断に迷う」「戸惑う」という考え方の先生方も存在して居られました。

そうした状況を踏まえて、こう考えるようになりました。無理にこの学校に入って、中途半端な成績を取るようでは、周りからどう考えられるか分からない。そもそも、併願はできないので、入試に落ちたら、普通高校進学が断たれてしまう。当時この学校の校舎は4階建てで、おんぶをして階段を上り下りする母親の負担が重すぎる。そして何よりも、「将来は山形大学に進学して法律を学びたい」という夢の道を、確実に歩んでいきたいと考え直しました。その結果、3階建ての山形中央高校に進学先を変えました。

山形中央高校での生活―完全な別世界

山形中央高校

山形中央高校の先生は、すぐに養護学校に見学に来てくれて、「頑張れ」と言ってくれました。卒業後、10年くらい後に伝聞で聞いたことですが、それでも、実際に、入試後の判定会議では、合格点を取っていたにもかかわらず、合格させるかどうか賛否が半々に分かれたそうです。

結果的には、「入学後の学校生活が無理なら、学生本人親子自ら退学を選ぶかもしれないし、もしそのように本人親子たち自ら動かない場合は不本意ではあるが、退学させるしか道は無いし、その道も残されている」ということで、賛成派側も反対派側も話し合いの上で、合格になりました。この逸話も卒業後10年後の話の時に、聞いた話です。

高校に入ると、それまでとは別世界です。違和感ばかり。完全なアウェーです。もちろん、学校側は、出入り口に緩やかな坂をつけたり、車椅子にあわせた机を作って教室や理科室においたりしてくれました。

それでも、周りの生徒からは、「なんでここに、障害者―実際には、当時の高校生に身近な存在としての「『障害者』という概念や言葉等」はなく、「遠い存在」のような感じで、「テレビで見るような体の不自由な人」―がいるの?」といった目が向けられました。当時は、社会一般的に、障害者用トイレなどもありませんでしたし、車いすを見たことすらないというのが当たり前でした。

ただ、差別意識がどうこうというよりは―入学当初、挨拶をしても無視する先生も極まれにいましたが、もちろん、その先生は、3年生くらい頃からようやく挨拶してくれるようになりました―、お互いにどう接したら良いのか分からなかったというのが大きかったようです。

周りの皆様が障害者のことを、よく知らかったようなのは、私が健常者のことを知らなかったのと同じなんですね。生い立ちも含めて、それまでの生活がまったく違うし、同じ中学の友達がいるわけでもないし、一緒に登下校することもないし、部活もできないし、いつも母親がいるし、すべての行動パターンが違うわけです。私も、自分から話しかけようと努力しましたが、何を話したら良いのか私自身がわからなかったのです。

だから、最初の一年は、自分から壁をつくってしまいました。「俺は友達を作るために普通高校に来たのではない。勉強しに来たのだ。遊びに来たわけではない。」というふうにです。それでも、先生の働きかけもあって、10回に1回ぐらいかな、同級生が母親の代わりに私自身を車椅子ごと担いで、階段を上り下りしてくれましたし、1年生の最後のクラスについての感想文では、「私がいたことで、クラスにまとまりが生まれて、良いクラスだった。このクラスメイトとまた学びたい」といった内容がほとんどで、ありがたかったです。

2年生、3年生になると、受験勉強が共通のテーマになっていき、勉強の質問とか、ノートを見せてもらうなど、コミュニケーションをだんだん取れるようになりましたが、殻に閉じこもってしまった自分のキャラクターを変えるまでには至りませんでした。

一方で、母は「人に迷惑をかけてはいけない」という人で、介助のかたわらで、購買部の手伝いをしたり、草むしりや掃除といった用務員の手伝いをしたり、同級生の女の子と仲良くなったりして―禁止されているおやつを隠れて他の生徒がコンビニで買って来た物を一時的に預かって隠してあげたりといった、いけないこともしていたようです(笑)―、卒業式の際には母親に感謝状までいただきました。

いずれにせよ、学校の皆さんと母親のおかげで、私は三年間、無遅刻、無欠席、無早退で通学することができたのです。このことが、いかに大変で、そして、いかにありがたいことであったのかは、私たち親子と山形中央高校のことが、当時の朝日新聞の「天声人語」で取り上げていただき、参議院の文教委員会の方でも取り上げられたことからも、お分かりいただけるのではないでしょうか。

山形大学入学―「障害者でも入れるレベルの低い大学」?

こうして、念願だった山形大学人文学部に入学することになりました。県内のすべてのマスコミが取材にやって来て、全国誌の週刊誌まで取材依頼がありましたが、それは断りました。「別に大したことをしたわけではない、自分は勉強しただけだ、周りに恵まれた結果である」と思っていたので、変に取り上げてほしくなかったのです。

そもそも法律を学びたいと思ったのは、小学生の頃にさかのぼります。当時から日本史が好きで、時代によって「決まり」があり、それが社会や一人ひとりの人間と深く関わっていることに興味を持っていました。その「決まり」というのが、例えば聖徳太子の時代であれば十七条憲法、というように、時代と共に、大宝律令武家諸法度、などなど、今日の日本国憲法に至るまでの「法律」でした。

ただし、ここで触れたのは「近代法学としての『法律』」というよりは、ただ単に子供の頃から日本の歴史の好きな一人の人間が感じた「社会の中にある『決まり』という意味での『法律』」という意味に、過ぎませんでしたが……。とはいえ、障害をきっかけとした私の身近に関わる問題も、法律を勉強することで、解決することができるのでは、と子どもの頃から子どもなりに考えてもいました。

大学に入って、ようやく、本来の自分のキャラクターを取り戻すことができました。大学はいろいろなバックグラウンドを持った人が集まっているし、先生も講義の内容もさまざまです。とくに、模擬裁判の活動に参加したことで出会った多くの先輩と、2年生になってから友達になったI君から大きな影響を受けました。

I君は講義室の最前列で講義を受けるような真面目な学生でした。2年生にもなると、先生の板書も少なくなり、ノートを取るのが大変になっていたので、I君にノートを見せてくれるようお願いしたのです。そうしたら、「話はわかった」と言いつつ、逆に「話を聞いてくれ」と言って、こんなことを言ってくれたのです。

僕は障害者でも入れるレベルの低い大学に入ってしまったと入学当初のころ思っていたが、それは間違っていた。なおき君とお母さんの頑張りが尋常ではなかったのだ、と気づいたんだ。だから、手伝うのはやぶさかではない。とはいえ、授業が必ず一緒になるとは限らない。望むノートを渡せるとも限らない。私は、たとえて言うなら『スーパーマン』じゃないんだよね。君のことを理解しきりたいのだけれど、分かり切ることは出来ない。僕が僕自身で僕の体を1週間手足を縛られても、君の障害の苦しさとか、全てを理解するのは無理だと思うんだ。なぜなら、僕の場合は1週間立てば元通り。君の場合は、生涯にわたってそのままの体なわけだから……。だから、僕の出来ることなら喜んで手伝いたいんだ。だけど、君の望む全てが出来るかどうか、わからないという事を、君にはわかっててもらいたいんだ。

もちろん、自分はそこまで求めるつもりはありませんでしたが、彼は真面目だから、「手伝う以上は真剣に」という気持ちから、あえて、自分の事情を伝えようとしたんですね。そして、それが、彼にとっては大切なことだったのです。私は、この言葉に眼が開かれました。

つまり、「障害者だから助けてもらう」のではないし、「健常者だから助けてあげる」のでもない。私は、一生懸命頑張っているが、それでもできないことがある。だから、できる範囲で助けてほしい。それに対して、I君は、私のことは理解できるので、自分にも限界はあるが、できることはしよう。それだけのことなのです。

普通にコミュニケーションをして、納得をして、付き合って、影響を受け合って、変わっていけば良いだけなのです。「障害者だから」「健常者だから」ということから、コミュニケーションを始めるのではない、ということです。

相互理解の上に成り立つ法と制度
―障害者差別解消法をめぐって

齋藤×伊藤

実際、法律を学ぶなかで理解した大きなことの一つが、法律によって人の心情を変えることはできないということです。「法律によって人の心を強制することが許され」れば、それでは憲法違反です。 では、福祉の法や制度は、何のために必要か。

「障害者だから」という観点でコミュニケーションしようがしまいが、実際には、障害者なので、さまざまな面で社会的な支援を必要としています。その支援をすべて、目の前のコミュニケーション、人間関係で成り立たせようとしたら、その関係は破綻してしまいます。

法や制度による支援があって―私の生活は多くの人の税金によって成り立っています―、特定の相手に過度の迷惑を掛けずに済むことになり、初めて、目の前のボランタリーな人間関係が成り立ち、相互理解が成り立つ。つまり、「障害者だから」「健常者だから」ではない“自由な”コミュニケーションができるのです。

そもそも論を言えば、法律が必要とされる理由は、簡単に言えば、「社会秩序の維持のため」にあります。「社会あるところ法あり」という法諺―法律に関する格言―がありますが、これを端的に示しています。ただこれは、昔の「決まり」とは違って、現代では、「『法律によって社会秩序を守る』ことによって、社会を形作る一人ひとりの『個々人の自由を守る』などのためにある」などと、されています。「なぜ法律があるの?」という理由のようなモノですね。

ですので、「社会の変化」に伴い、「法律や制度が変わる」ということにもなるわけです。社会の変化や問題に対して、すべて法制度が変化して対応出来るというのは、現実的に困難ではありますが、法律というものが、社会の変化に対する「社会秩序の維持や問題解決を与える手段の一つ」として、存在しているということは、おそらく間違いないと考えます。

そのような形で、法律があることで社会が守られることにより、一人ひとりの個々人である市民が、“自由”を守られ、自由な活動が出来るものと、私は考えております。そして、そう言った「自由が守られること」により、自由なコミュニケーションが出来るものと私は考えています。

たとえば、今年の4月から障害者差別解消法が施行されました。これによって、障害を理由とした「不当な差別的扱い」を行うことが法的に禁止され、公的機関では、当事者の申し出に応じて、過度の負担にならない範囲で、社会的障壁を取り除くよう、調整や工夫を行うこと、つまり、「合理的配慮」を行うことが法的義務とされました(民間事業所は努力義務です)。

法の施行に当たり、2014年に山形でもシンポジウムが開かれたのですが、そのとき、参加者の方の一人が、「障害者差別解消法は、錦の御旗のように、使えるかも!」といった趣旨の発言をなさいました。私は、先ほど述べた「法律によって人の心情を変えることはできない」という理由から、それでは、むしろ危うい方向に進むことになりかねず、障害者と健常者の相互理解には結びつかないと思いました。

他方で、障害者のなかにも、自分で出来ることを怠りつつ、それでいて、ただ「社会が悪い」「周りが悪い」と言って、一方的に要求する態度を取る人たちが、少ないでしょうが現実に存在します。そうした人たちにはそうした人たちの考えがあるのでしょう。それを「否定する権利」は私にはないので否定しませんし、否定できません。しかし、それだけでは、真面目に“障害者の方を理解しようと考えている”健常者の理解は得られないのではないかと、私は感じます。

障害者が、健常者と同じようにはできないのは厳然たる事実です。それでも、「必要十分な支援を受けながら」であることは必須事項となりますが、そのような支援を受けながらも、「自分なりに出来ることはやらなければ」、同じ一人の人間として向き合うことができないと考えています。

そして、「自分なりに『出来ること』」ということは、別段、たいしたことでなくて良いと思います。「ご飯を食べること」「散歩に出ること」といった日常生活的なことや、さらには、障害者やその障害の種別や軽い重いの違いや、疾病や難病などの原因の違いを踏まえた上で(元々、誰ひとりとして同じ能力や性格のヒトはいない“違いのある存在”ですが)「“同じ人間”として関わること」だと思います。そして、こうした「自分なりに『出来ること』」は、そのヒト当事者のペースで、休みながらで良いとも、私は思うのです。

障害者だからといって、ことさら「努力の人」になる必要もなく、ことさら「(心など)キレイな道徳的な人」でなければならないとは、私は考えておりません。これもまた、障害者等や健常者との“違い”なくと言いますか、「社会に存在する、ただの単なる一人の人間」としての感じ方と、似たようなかたちで良いと私個人は思うのです。

だからこそ、「みんな違う存在としての『相互理解』を促進する」ことこそが、大事なのではないかと、私個人は考えますし、そのために「様々な背景を持つ方々との自由なコミュニケーションが必要不可欠なのでは」と感じますし、その「自由なコミュニケーションを守るための一つの手段」として、法律や制度も大切であると、私個人は考えるのです。

残念ながら、山形の障害者は、これまで外に出て行く機会が少なく、障害者運動のようなものも大同団結のような大きな動きは極めて少ないとの印象を私はもっております。そうしたなかで、外から法律だけがやってきているのです。

本来であれば、私たち障害当事者自身がもっと外に出て、自分たちを知ってもらうとともに、自分たち以外のことを知るようにしなければなりません。障害当事者が外に出るための支援が必要であるならば、障害当事者が動くべきであると私個人は考えます。

つまり、社会システムにのっとった形で、様々な人に働きかけると共に、社会全体に働きかけること。そして、その延長線上に、福祉行政などに働きかけて、「多くの障害者が、広く実質的な平等性を踏まえて、個々の障害者の現状をかんがみた支援を受けられる」ように働きかけることです。「一人だけ」とか「障害者や難病者の方の中でも特定の誰かのみ」というような限られた人だけが、支援を受けることができるような社会システムでは芳しくないと、私個人は感じるのです。

実際、合理的配慮が求められる時代になっても、例えば普通高校の壁は依然として高いですし、そもそも通学の介助は介護保険障害福祉の対象にならない、といった介護保険法や障害者総合支援法の規定を多くの人は知りません。 障害者差別解消法も、対象は個人であって、たとえば、障害者施設や事業所や団体等に対する差別的反応など、差別、いわば“差別感情”そのものを解消させてくれるものではありません。

ですから、個々の地域の実情に応じた条例の制定が必要になります。そして、条例の制定にあたっては、私たち山形の障害者が表に出て行き、社会の皆様との相互理解をはかる必要があるのです。

障害者/健常者が変わるための場所づくり
―新たな政策形成を目指して

私の話に戻ると、大学在籍中に、今言ったような理由から、私は福祉制度の根本をなす行政法を専攻し、在学中に行政書士の資格を取りました。卒業後は、司法書士を目指して勉強を続けましたが、自分が骨折してしまい、母親も脳梗塞で倒れてしまったので、十分な勉強ができなくなってしまいました。

それでも、現在は、公的介護制度と山形における運用に見られるさまざまな問題点を、障害者と健常者の垣根を超えて話し合う場をつくっています。ひとつが、「ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)」です。

これは、そもそも、滝口克典さんと松井愛さんが代表を務める「ぷらっとほーむ」さんが2015年4月に企画された「じゅくぎ@ヤマガタ」から始まっています。これは、山形市内8か所で、それぞれにテーマを設けて、それぞれの場所で、集まった人たちがそれについて改めてじっくり話す、という熟議の場づくり企画で、その企画に賛同して、自宅で開いたんです。

plathome.wixsite.com

それをイベントで終わらせるのはもったいないということで、ストック・アウェアネスという会に発展させました。制度や政策というと、少し敷居が高いので、きちんとテーマを決めつつも、気楽に議論ができる場にしたいと思っています。

もうひとつが、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」です。この会は、制度・政策志向の会ですが、行政や制度に対する不満を内々でぶつけあって終わるのではなく、しっかり勉強して、根拠理論と形式を整えて、行政に障害や難病等の特性を踏まえた政策提言をしていこうという会です。

小野仁先生が発起人だったのですが、小野先生から、当事者が代表になるべきだ、と言われて、周りの方も賛同してくれたので、代表になっています。第1回目の創立を兼ねた例会が2016年3月に開かれました。

実際のところ、一口に「障害者」といってもさまざまで、横のつながりはごく限られています。障害者と健常者の世界がまるで違うように、障害者や難病者同士の世界もまったく異なります。せめて、障害などの違いがあっても“障害者や難病者同士”では深くつながりたいと思っています。ですから、私が障害者などの代表だという気持ちはまったくありません。

と同時に、障害者の世界にこもることなく、今の社会の中を生き抜く一人の人間として、社会に存在する障害者として、社会全体を学んでいくこと―具体的には、(障害者と通称される方以外の)いわゆる健常者の抱える問題を含む社会全体の様々な諸問題を学ぶこと―が非常に大切であると考えるに至りました。

障害者として、そういった「学びの場に参加すること」によって、他の参加者の皆様に、社会に存在する者としての「障害者」の実情を知ってもらうこともできますし、障害者自身も、健常者や社会全体の問題を学ぶことによって、「相互理解」が促進されるのではないかと感じるようになったのです。

さて誰が、そのような行動を起こすのか。間違いなく感じることは、誰かが出て行かなければ、何も変わらないということです。制度が勝手に変わって、現実も勝手に変わってくれるというものではありません。一段一段、階段を上るしかない―電動車いすでは登れませんが(笑)。

そうした思いで今回、政策研究ネットワーク山形に参加させて頂くことにしました。ご迷惑をおかけすることが多くあるかと思うと心苦しいのですが、それが社会というものだと考えて、いろいろな人が集まり、つながることで、政策を生み出していくことができればと思っています。

(2016年9月18日・インタビューア:伊藤嘉高)

伊藤嘉高事務局長、齋藤直希会員、齋藤郁子会員