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政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会(3月25日)のご報告

ミーティング

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を2016年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。3月25日(土)に、第4回勉強会が開催されました。ワールドカフェの方法を取り入れ、4会員からの報告をもとに、小グループに分かれて、席替えも行いながらディスカッションを行いました。

現在、全4回の発表と議論を踏まえた発表会&討論会を企画・準備しています。まずは、第4回のまとめをお届けします。

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第1セッション~子育て・若者支援の政策課題を考える

第1セッションでは、子育て・若者支援の政策課題に焦点を当てた報告がなされました。

まず、山本泰弘会員からは、ひとり親家庭をはじめとする経済的に困難な家庭に対し、幼児教育&保護者教育の機会を提供する「まちなかクラス」の創出が提案されました。その背景には、子どもの将来の能力開発に大きな影響を与える幼児教育へアクセスできる子とできない子とが家庭の経済力によって峻別され、いわゆる「格差の再生産」が進行するという現実があります。したがって、格差解消のためには、幼児教育に対する支援が必要であるというわけです。

次に、滝口克典会員からは、ぷらっとほーむでの実践に基づき、「若者支援をめぐる山形県の政策について」報告がなされました。「引きこもり」や「ニート」の問題の根幹には、「居場所の問題」があるとの知見に基づき、必要なのは、数値として成果も目に見えやすい就労支援、登校支援などではなく、若者の多様性を受け入れる「居場所作り」であると指摘されました。その上で、それを可能にするのは「支援といわない支援」を行うNPOであり、県からも年度単位で補助金による活動支援がなされている現状について、報告がありました。

ワールドカフェによる会員間での議論の結果、いずれの報告にも共通するのは、生活課題に対する制度的対応はもちろん必要ですが、そうした対応は、スティグマの問題、細切れの問題、硬直性の問題も生み出すために、それだけでは限界があることなどが指摘されました。むしろ、人びとの生活全体をともに支えあうことができるような「つながり・ネットワーク・コミュニティ」の創出こそが求められており、こうしたつながりの創出に向けた地味な支援(人材育成、空き家利用による交流拠点の提供など)こそが行政に求められている、との指摘もなされました。

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第2セッション~山形市の「発展」の政策課題を考える

第2セッションでは、山形市の発展計画に関する政策課題に焦点を当てた報告がなされました。

まず、齋藤直希会員からは、重度障害当事者として、一市民としての現実=日常生活を踏まえた「山形市発展計画の検証を行っていただきました。まず、「子育てしやすい環境の整備」、「教育環境の整備」については、現状の計画が、「子供が常に健康で、それ相応に安全に過ごせる『居場所』が存在した場合」に偏っており、医療面、教育面など、「本当に困ったときの支援」こそが必要であり、子育て世代の現状にもっと目を向けた政策(障害児童生徒に対応した教育環境の整備、放課後の整備など)が求められると指摘されました。

さらに、「「高齢者がいきいきと暮らせるまちづくり」については、介護保険制度の財源問題も視野に入れて、「地域で支援し合う」ためには、事務作業の簡略化などの工夫が必要との指摘がなされました。

続いて、伊藤嘉高会員からは、山形市が進める「市街化調整区域規制緩和の意義と課題」について報告がなされました。まず、4月3日の公示による指定範囲を見るまで最終判断はできないが、今回の山形市規制緩和は、抑制的なものであり、その点は評価できると指摘されました。というのも、実際に、山形市内に居住を望みながら叶わない子育て世代が見られるため、ある程度の人口転入は見込めるからです。また、周辺市町村との人口の奪い合いになるだけではないかとの指摘も考えられますが、広域で考えれば、山形市外に広がっていく宅地を、山形市内にコンパクトにまとめるという見方もできるわけです。周辺市町の老朽化した公共施設をすべて更新できないことを考えれば、なおさらです。

ただし、他方でさまざまな課題も指摘されました。まず、市街地の空洞化をさらに進めてしまうのではないか? 市街地における空き家の数はきちんと把握できているのか? 人口30万人ビジョンの実現に向けて、今回の規制緩和はどの程度、寄与するのか、シミュレーションはなされているのか? という疑問です。規制緩和も困難な作業ですが、緩和したものを再規制するのはさらに困難です。人口30万人ビジョンの軌道修正が必要になった場合、引き返しが可能になるような、段階的な規制緩和が必要であるとの指摘がなされました。

その上で、合理的な規制緩和に向けて4点の政策提案がなされました(詳細は割愛)。他会員からも、空き家の原因を見極めた対策を優先させるべきとの声も挙がりました(しかし、4月3日の公示では、条件に該当する区域がすべて規制緩和の対象になりました)。

ワールドカフェの議論では、いずれにせよ、数値目標のビジョンの前に、住民とともに「山形での魅力的なライフスタイル」あるいは、(こぼれ落ちた人、こぼれ落ちそうな人への視点を併せ持った)「山形での生活の豊かさ」(ゆとりあるスローライフ)を提示した上で、さまざまな支援策にせよ、都市計画にせよ、さまざまな政策が形成されるべきとの声が多く挙がりました。

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会員紹介(第8回)村中秀郎会員(NPO法人まちづくり山形代表)

会員インタビュー

第8回会員紹介は、NPO法人まちづくり山形代表の村中秀郎会員です(2017年2月8日インタビュー)。都市計画コンサルタントとして、全国の都市計画事業に携わった経験から、住民と行政の協働が実際には機能していない現状を変えるべく、まちづくりNPOを立ち上げ、両者の橋渡し役などとして活動されています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
むらなか・ひでお。1949年山口県生まれ。大学卒業後、知人の都市計画コンサルタント事務所に参加。全国の都市計画事業などに携わり、会社代表も務める。2001年から(財)山形県都市整備協会、2007年にNPO法人まちづくり山形を設立し代表に就任。現在に至る。山形市在住(東京との2地域居住)。

学生運動を経て、都市計画事務所へ

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生まれは山口県で、サラリーマンの家庭でした。 父親は大手電機メーカーに勤めていたので、転勤の連続。当時は単身赴任するという考えもなかったから、転勤のたびに一家6人で引っ越して、当然学校も変わりました。歌詞ではないですが神戸、大阪、名古屋、東京と移り住んできました。

父親にとっては出世街道だったのでしょうが、私にとって“ふるさと”らしきものを持つことはできなかった。だが、引っ越すたびにあたらしい出会いや発見などもあり、子供心にワクワクしていたように思います。

1か所に落ち着かなかったせいではないと思いますが、私自身、どうも社会を斜めに見るところがあって、大学生の頃がちょうど70年安保だったから、学生運動にぶちあたり波乱づくしの学生時代でした。

よく卒業できたと思うのですが、五体無事で大学を卒業して、知人の軽い誘いでちょうど立ち上がった都市計画事務所に入所しました。知人とは学生時代にお世話になった先輩で、学生運動の合間にちょっとしたビジネス(仲間と下請け)をしていた時に仕事を回してもらっていた。生活費とか活動資金とか、色んな意味で助かった。

都市計画コンサルタント会社の光と影

事務所といっても結社みたいなものです。 飲み屋で気の合った人を明日から採用するといった具合に、自由な会社で、社員の裁量も大きくて、ある意味何でもありだったような気がします。

当時の仕事スタイルは、午前様までコツコツと、それから飲み歩き極端に言えば朝登校する学生の姿を見て我に返る、仕事をしているのか遊んでいるのか、よくわからないそんな感じだった。 だが、ちょっと言わせてもらえば、ただ飲んだくれていたわけではない、多くは先輩たちと都市づくりについて議論する、それがいい経験だった。その先輩たちが都市計画の第一線にいたから、いろんな勉強をさせていただきました。

その当時、都市計画を仕事にする事務所は少なくて、東京を拠点に、地方の仕事を中心に、地方に行くたびに支社を作って、長期間滞在するというかたちをとっていました。 場所もそうなんですが、むしろ人なんでしょう、人が好きなんです、がんばっている人を見ると近づいてしまう。そんなことから居座る結果になる。

私の場合は、沖縄や四国などでの仕事が長く、山形でも山形新幹線(1992年開業)関連の事業で4年ほど通いつめました。 行く先々すべてをリセットして取り組む、出会いや発見も含めて何が起きるか、何ができるかって、そのワクワク感は子供頃に感じたワクワク感に通じるものが、その気持ちは半端ではなかったように思います。

新天地に行ったら先ずは夜の探検、何軒もはしごする、名士といわれる人たちが夜な夜なざわつく店にたどりつくまで色々と情報を集めながら、出会えた時はハッピー、そこで色んな話を聞く、ここで思い入れが注入されるというわけです。 そんなこんなで、まちづくり、多くの人に助けられ、教えられ、まがりなりにも自分らしくできたのではないかと思っています。

20代の頃は、多くのことを地方の役所の人たちに教えてもらいました。 地方の地方に行くほど、良くしてくれました。本当に公僕だったような、給料いらないよってわけだから自分というものを持っている、本当に上下の関係なく仕事の完成に突っ走る仲間という意識で仕事していたように記憶している。 本当にすごい人が多かった。ラッキーだったと思います。

そんなスタイルで仕事をしているこの事務所、自由人が集まっていたからおもしろい実験的なこともした。しょせんアルバイト集団のようなもので背負っているものが少ない、だがらできたのかもしれません。 社内入札制度をとっていたのです。しかも、事業ごとの独立採算で、給与もその枠のなかから自分で自由に決めてよかった。大げさに言えば仕事も給与も自分次第というわけです。だから、給与が半年くらいゼロの時期もありましたが、まったく気になりませんでした。

時間に追われる仕事もありましたが、意外と自由だった。今でいうネット炎上するような出来事が毎日起こる。それも反省なのですが、仕事面でも反省することは多いです。 区画整理の仕事をしていた時、全国津々浦々どこにいっても同じような街をつくってしまった。今思えばどうかしていた。

早々に区画整理から足を洗い、住民と一緒になって取り組む地区計画のまちづくりに移行しましたが、気が付くのが遅かったようで、もう後の祭りです。今考えると、50年、100年耐えられるまちづくり、その責任は重たいと思っています。

この仕事は、人とのコミュニケーションが大事、無理があるかもしれないが、というわけで酒を飲むのも仕事だったように思います。権利者とぶつかった時などに、お酒は本当に潤滑油になった。 朝の4時に「この若造が!」とたたき起こされることがありましたが、それでも、一緒に酒を飲むようになり、向き合って話ができるようになると、こちらの立場も理解してくれるんです。それで、お互いに折り合い”を付けられるようになるわけです。答えの一つを見つけるのにお酒は役に立ちました。ただ、帰してくれない、徹底的に飲もう、自然とお酒が強くなりました。

こうしてお酒とともになし遂げてきた仕事について、仕事巡礼というか、どうなっているのか見に行く、会いに行きます。言わば“折り合い”が本当に良かったのか、間違っていなかったのか、自己満足かもしれないが確認しに行くわけです。 人に会うとあの頃は……と感謝されるが、むしろア~だ、コ~だと言われたい、それが普通だしそれが明日への活力になる、贅沢だけど。 ボーと眺めて、その時の判断はそれで良かったのか、自分に問いかける、“答え”はないのだけど、そんな繰り返しです。 

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山形の地に根ざして、市民と行政をつなぐまちづくりNPOの立ち上げ

東京と行き来する生活だったのですが、どういうわけか山形県都市整備協会に声をかけられました。2001年(52歳)のことです。またまた、あまいささやきに酔いしれて山形に居座ることに。

協会に勤めてからは、山形の様々なまちづくりにかかわらせていただきました。ところが、山形での暮らしがホテルからアパートへと山形に重点を置き始めたころ、協会が解散することとなりました。東京に戻ろうかと悩みましたが、地元の文化や生活に、もっと向き合いたいという思いを強くいだいていたことや、都市計画における市民と行政の協働を進めたいという強い思いがあったので、有志とNPOを立ち上げることにしました。なぜか、これまでのところとは違ってその思いが強かった。

それが、「NPO法人まちづくり山形」です。 NPOの活動は、多岐にわたっていますが、すべての活動の根幹には、「都市計画を市民の手に 市民力の育成」というテーマがあります。 発足当時は夢もあったのでがんばりました。

2年にわたって、マンション居住者への意向調査を行い、街なか居住に関するワークショップを定期的に開催しました。その結果、街なかでは、住まいが暮らしと結びついていない現状が分かりました。両者をつなぐためには、用途地域など都市計画上の設定だけではうまくいかず、やはり、市民活動やコミュニティが必要で、そのための仕組みや仕掛け、場づくりなどの具体案を提言しました。 その当時の提言はコミュニティに視点を置いて、地域で考え判断するというもので、間違っていなかったと思っています。

また、空き家、空き地、そして老朽マンションの問題にも触れました。 継続した取り組みとして、街路事業に伴うまちづくりの支援を行っています。 山形市の栄町大通りや薬師町通り、寒河江市流鏑馬通りなどのまちづくり活動について、住民が立ち上げた検討組織を支援するかたちで、行政とのコーディネートなどを行っています。他にも、各地のまちづくり活動を地元NPOなどと連携しながら活動支援を行っています。

活動を始めたころから思っていたことがあります。 今住んでいる山形市なんですが、良く東京などで山形の話をすると鶴岡、酒田、金山町の名前は出るのですが山形市は一向に出ない。今、「違うよ、山形市は変わるよ」と発信するチャンスと思っています。

山形市には文化を感じないというのが共通の理由なのですが、どうやら行政がやってきた仕事に大きく関係しているようです。 だが、今がチャンス、若い市長になった、変わるチャンス、変われるチャンスと思っています。 佐藤市長がもっと大胆に動けるように、応援する動きがもっとあってよいと思っています。

行政の方と一緒にまちづくりにかかわって40年以上、仕事上どうしても行政の方のスタンスなどを見てしまう。そのスタンスによっていいまちづくりができるからです。 今少し感じているのが、行政の方に……はじめから収まるところに収めようとしてしまう傾向が見られることです。そのほうが楽だし、批判もされず、あとから問題にもならないから。

確かに、私も自分のしてきたことを振り返ると反省ばかりです。けれども、私の経験では、「いいものをつくろう」という思いで集まり、ひとつひとつ積み上げていけば、たいていはいいところに収まるものです。それをマニュアルで何とかしようとする。「違うでしょ」、「どこにでもあるものを作りたいのですか」と言いたい。思い込みもあるのでこれまた厄介です。

だけれども、一番怖いのは、「大変な思いはしたくない」となっていることです。 一人ひとりの職員は優秀でやる気もあるはずなのに、どうして組織になると停滞してしまうのか。その根本にあるものを変えなければならないと、やはり一人ひとりがもっと行動と発言ができるような文化を創っていくしかなさそうです。 そうなると、とても数年で変わるものではないと思うが、もう一度言います。今がチャンス、山形市が大きく変わるには今から仕掛けることが必要です。

若者からまちづくりの文化を変える

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私が期待しているのが若者です。 これからの人口縮小、都市縮小の時代に、力任せのやりかたでは絶対に上手くいきません。 若者たちに、自分の意見を主張するという姿勢をもってもらいたいと考えて、「若者の地域づくり交流の場づくり」という活動をしています。

具体的には、まちづくりを実践する仕事人から話を聞き、議論をするという場をつくっています。進行係は山形大学生と東北芸術工科大学生の二人にすべてを任せることで、毎回、熱心な議論をやっています。

大学でもさまざまなかたちで地域づくりの調査や実践がなされるようになっていますが、単一の大学のカリキュラムにとどまらず、もっと継続的な深みのある交流や連携を生み出していくことが必要であると考えて、やれることをやっています。

そもそも、中山間地に行けば大歓迎してくれますが、市部ではなかなか若者を受け入れてくれません。今、芸工大生によるリノベーションの活動がきっかけで変わろうとしていますね。

何はともあれ、若者には、「あれはダメ」の壁を崩していけるだけの力と、それを支えるネットワークが必要ですし、大人たちの理解と協力が不可欠。若者にやさしい、可能性を引き出せるまちになってほしい。それが山形市の大きな魅力の一つになると思っています。 その手伝いをすることが、長く生きてきた私の最後の仕事の一つと思っています。

(2017年2月8日インタビュー、聞き手・伊藤嘉高) 20170208195906

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会(3月25日)のお知らせ

ミーティング

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。 第4回勉強会を3月25日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

なお、多くの方にご参加いただいているため、さらに多くの方に多く発言頂き、有益な議論が行えるように工夫します。具体的には、ワールドカフェ方式を採用して、小グループに分かれて、席替えも行いながらディスカッションを行いたいと考えています。

第4回勉強会のお知らせ

山形市を中心とした山形県自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会を3月25日(土)に開催します。

前回に引き続き、各会員から「これまでの議論を踏まえた上で、山形市の強みを生かした、持続可能性のある人口ビジョンと総合戦略」について、それぞれに関心あるテーマのデータと実情、提言をお示ししただき、最終的な提案をまとめていくことになりました。

これまでの議論を踏まえると、おそらく、最終的な提案では、個別の論点の詳細にまで立ち入ることはできず、人口ビジョンと総合戦略の問題点と課題を提示し、それに対応するいくつかの政策パッケージを示すことになり、次年度に、そのなかから具体的なテーマを設定し、詳細な調査と議論を行う形になるのではないかと考えております。

議論の時間が限られていますので、ご自身の知見をご発表頂ける会員から、事前にペーパーをご提出頂き、それを事務局でテーマごとに整理し、各会員にも事前に目を通して頂いた上で、勉強会当日はテーマ別セッションを設け、自由なディスカッションを行いたいと思います。

そこで、ご発表頂ける会員は、タイトルを付したA4ペーパー(枚数や様式は問いません)を3月22日(水)までにメーリングリストにお流しいただくか、事務局までお送りください。facebookユーザーの方は、下記ページでも受け付けています。一人でも多くの方のご発表とご参加をお待ちしています。

第1セッション「子育て・若者支援の政策課題を考える」

1. 山本泰弘 会員
 「幼児教育支援施策『まちなかクラス』」
2. 滝口克典 会員
 「若者支援をめぐる山形県の政策について」

第2セッション「山形市の『発展』の政策課題を考える」

1. 齋藤直希 会員
 「現実生活から感じる『山形市発展計画(抜粋)』の問題提起」(仮)
2. 伊藤嘉高 会員
 「市街化調整区域規制緩和の意義と課題」

 

第3回勉強会まとめ

第3回勉強会も、前回からさらに4名の方が新たにご参加くださり、4会員からの報告をもとに、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。

seisakunet.hateblo.jp

第1テーブルでは、モビリティ(移動)に焦点をあてた報告がなされました。

まず、貞包英之会員からは、ご自身の調査に基づき、山形市生まれ&市外移住の経験のない者は、全市民の27.4%にすぎず、多くが移住経験を有していることが指摘されました。他方で、マクロな傾向として地域間移動の減少し、近距離間の移動の重要性が高まっていることが指摘されるなかで、県内他市町村から山形市に移住する動機が薄れており(近隣市町村に住んだ方が地価は安いし、不便でもない)、山形市単体で人口ビジョンを考えることの限界が指摘されました。

続いて、山本泰弘会員からは、移住の妨げとなるミクロなモビリティの問題を解決することも求められるとして、家と車をセットで貸し出す事業が提案されました。定住のためには自動車が不可欠だが、県民にとって、自動車を運転する生活は当たり前だが、移住希望者には、心理的、経済的負担が大きく、埋め合わせる施策が必要というわけです。

この事業構想に対しては、マクロな人口移動の動態そのものを変えるだけのインパクトのある施策が必要という意見とともに、ミクロな施策を積み上げることが重要との指摘もなされました。また、こうしたモビリティに関する施策は、とりわけ学生に対して有効なのではないかといった意見が出されました。

実際、多くの学生は車を所有しておらず、車のない不便な生活のイメージしかもてないために、卒業後、山形から離れてしまうという可能性が考えられます。したがって、家とセットとまではいかなくとも、学生がレンタカーを借りる際に、学校と行政、レンタカー会社が負担し合って、学生に低額で貸し出せるような仕組みを作ることで、学生に山形の魅力を感じてもらえるようになると考えられるからです。

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第2テーブルでは、さらに事業起こしにも焦点を当てた報告がなされました

まず、石川敬義会員からは、山形県労働生産性の低さが指摘される一方で、中小企業でも必ずしも労働生産性が低くなるわけではなく、地域資源を活かした独自産業こそ、労働生産性が高くなると指摘されました。つまり、従来産業の誘致や支援では、労働生産性に限界があり、魅力ある仕事を生み出せないため、独自産業を生み出すインキュベーションに対してこそ行政の支援を行うべきというわけです。

続いて、伊藤嘉高会員からは、まず、石川会員の問題提起を引き継ぎ、現下の地方創生では、いたずらな都市間競争を呼び、地方を疲弊させるばかりであり、持続的&自立的な経済圏の発想が求められることが指摘されました。とはいえ、そうした発想は、往々にして既存産業の温存につながり、新陳代謝が進まないという問題があります。

そこで、行政は、たとえば、中心市街地に対しては、新陳代謝の仕組みを作り出す「まちづくりNPO」等に対して補助金を出すようにスキームを改め、民間主導の市街地活性化を促すべきとの指摘がなされました。モビリティの高まりを考えれば、莫大な税金をつぎ込み、行政主導で中心市街地を再活性化させる必要性、必然性がないからです。

そもそも、モビリティの向上と、情報インフラの進展により、人びとの生活にかかわるすべての物事を一点に集中させる意味がなくなりつつあります。農業を解体し人びとを都市に集中させてきた論理そのものが反転しようとするなか、人間の生活空間を農業の空間に再配分させていく動きを育てていくべきとの意見もありました。

東京への人口集中の問題を、地方レベルでの人口集中によって解決できるわけがありません。東京を縮小再生産しただけの都市に何の魅力があるのでしょうか。そこで、中心と周辺(あるいは文化と自然)という従来型の空間の割り当てによる都市計画ではなく、田園型・分散型の「ゆとりとつながりのある」生活空間を実現する新たな土地利用規制&緩和を検討すべきとされました。

具体的には、スプロール化の愚を繰り返さないためにも、中心市街地以外でも、町内会等の地域団体をまとめる「まちづくりNPO」を地区単位で育成し、当該NPOに対して補助金を一括交付し、コミセンなどを核に、地区計画の策定や、地域経営、コミュニティビジネスを行う環境を整備すべきとの提案がなされました(さらに、当NPO職員から市職員に登用する仕組みも用意することで、地域をつなぐ能力を有し、熱意のある優秀な若者に地域で活躍してもらうとともに、そうした公務員を養成することにもつながるというわけです)。

さらに、地域包括ケアが機能していない現状を踏まえ、まちづくりNPOが小規模多機能型施設と連携して、地域包括ケアを実現させるという案も出ました。さらには、ケアマネの独立性が確保されていない日本では地域包括ケアは無理との指摘もなされました。(現下の法的枠組みのもとで)そうしたケアマネの問題に対応するためにも、事業者を超えた「地域ケア会議」(和光市などの先進的なケース)をまちづくりNPOと連携して開催するといった仕組みも考えられます。

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「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第3回勉強会(1月28日)のお知らせ

ミーティング

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。

第3回勉強会を1月28日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

第3回勉強会のお知らせ+発表者募集

第3回勉強会を1月28日(土)13時30分から開催します。

第2回勉強会で挙がった下記のデータと論点に基づき、山形県・山形市の総合戦略(発展計画)と人口ビジョンを踏まえ、各会員から「山形市の強みを生かした、持続可能性のある人口ビジョンと総合戦略」について、それぞれに関心あるテーマのデータと実情、提言をお示ししただき、さらに議論を深めたいと思います。

議論の時間が限られていますので、ご自身の知見をご発表頂ける会員から、事前にペーパーをご提出頂き、それを事務局でテーマごとに整理し、各会員にも事前に目を通して頂いた上で、勉強会当日はテーマ別セッションを設け、自由なディスカッションを行いたいと思います。

そこで、ご発表頂ける会員は、タイトルを付したA4ペーパー(枚数は問いません)を1月21日までにメーリングリストにお流しいただくか、事務局までお送りください。一人でも多くの方のご発表をお待ちしています。

※ご出席頂ける方は、1月26日(木)までに、メーリングリストや電子メール等で事務局までご連絡ください(facebookアカウントをお持ちの方は、Facebookページでも参加申し込みを受け付けています)。 会員以外の方もご参加頂けます。よろしくお願い申し上げます。

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第2回勉強会のまとめ

第2回勉強会は、前回からさらに4名の方が新たにご参加くださり、3会員からの報告をもとに、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。

seisakunet.hateblo.jp

第一報告「国における地方創生の現状」

第一報告(梅津庸成会員)では、まず、政府としての軸が、地方創生から一億総活躍社会に移行しており、個別の人口ビジョンに対する関心はほとんどないことが明らかにされました。その上で、今日の都市間競争の時代においては、山形市の客観的な「強み」を明示した上で、適切な人口ビジョンを設定すべきであるとの問題提起がなされました。

他方で、複数の会員からは、人口ビジョンはひとつの姿勢を示したものに過ぎず、具体的な数値にこだわるのではなく、その姿勢を大切にすべきであるとの指摘もなされました。また、過大な人口ビジョンでは、本来達成できるはずの筋道も見えなくなり、マイナスの影響を及ぼすとの指摘もなされました。

第二報告「山形における社会的移動の現実から人口30万人ビジョン実現の課題を考える」

第二報告(伊藤嘉高会員)では、山形市の社会的移動は、流入超が続いてきたが、徐々に減少し、2014年には流出超に転じ、2015年はさらに拡大している現状に対して、その背景についての分析がなされました。

たとえば、県外への転出の拡大、県外からの転入減が続いており、子育て世代を中心に転出超が拡大していました。とりわけ、子育て世代は、村山圏内での転出超は改善しているが、県外からの転入が大きく減り、全体で転出超に転じていました。また、20代は、宮城への転出超に変化は見られない一方で、関東への転出超が拡大していました。仙山連携は、対仙台の関係よりも、(山形+仙台の)対関東との関係を変えるものでなければ、効果は限られているとの示唆が得られました。

さらに、県内他市町村では、県外からの子育て世代は転入超にあることを踏まえると、土地利用規制緩和によって、宅地面積を増やせば、「ある程度」、山形市に転入させることは可能であるが、効果は限定的であり、持続性もないことが分かりました。その意味でも、山形の強みを生かした産業振興が伴わなければ人口増は困難であるとの指摘がなされました。

第三報告「農業と貧困から見る山形のこれから」

第三報告(草苅裕介会員)では、人口ボーナスによる経済成長の終焉とともに、日本国全体の人口減少、高齢化のなかで、従来型の産業振興が無効になっている指摘がなされました。その上で、山形が生き残るために、農業に焦点を当てて、1.ポーランドのバル・ムレチュニィをベースにした安価な食堂の設置、2.各農家等で作られる自家消費野菜や中央市場や丸勘等で食べれるが破棄される商品等を集荷し安価に移動販売する、3.農地を社会的共通資本とし公的組織が主体となった農業を行い職と食を生み出すことが提案されました。

いずれにせよ、成長を前提とした経済ではなく、持続可能な贈与経済を実現させ、ローカルな自立経済循環の仕組みをつくることが必要であり、「共有地の悲劇」を超えるためにコモンズ(入会)型の仕組みを作ることが必要との論点が打ち出されました。

論点のまとめ

以上の報告とともに各会員から指摘された主な論点を事務局でまとめたところ、以下の通りになりました。

  1. 山形市に宅地だけ増やしても人口(とりわけ子育て世代)が増える時代は終わった。
  2. 政府は、地方へ人口を還流させるマクロ政策をとりそうにない。
  3. 山形市のような地方の県庁所在都市も人口流出の時代に入っている。
  4. 宅地を増やして人口が増えるとしても村山地域の他市町村から奪う形になり、効果は限定的で、持続性もない。
  5. もちろん、人口減少の背景にある個々人の生活問題に取り組む政策を打ち出し、人口減少に対応する必要はある。
  6. そこで、他の地方都市に対する山形市の優位性を見いだし、それにしたがった産業振興とともに、実現可能な人口ビジョンを打ち出すことが求められる。
  7. ほぼ唯一の優位性は、仙台市政令指定都市)との隣接であり、仙山連携は理に適っているかもしれない(富谷町、広島の府中町などの例がある)。
  8. しかし、仙台との隣接が30万人を実現するほどのポテンシャル(とりわけ対関東に対する山形+仙台のポテンシャル)を有しているかは検討が必要。
  9. 優位性が見いだせなければ、他県から人口を呼び寄せるような産業振興は容易でなく、ローカルな自立経済循環の仕組みをつくることが必要である。
  10. たとえば、コモンズの仕組みの実現に向けて、従来の産業構造を転換することが求められる。そして、その転換を実現するためには、さまざまなかたちで、個々人のつながりを深める取り組みが必要である。

会員紹介(第7回)池田昭会員(元山形警察署長、元八幡町助役、山形産業資源調査研究所所長)

会員インタビュー

第7回会員紹介は、山形産業資源調査研究所所長の池田昭会員です(2016年10月30日インタビュー)。警察官や助役としての経験を踏まえ、土地利用規制が既存産業の保護による地域経済停滞につながっており、地域経済再生(地方創生による人口増)のためにも、自治体首長による土地利用規制の緩和・解除を訴えておられます。

本会は、現在、山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略について批判的検証を進めていますが、池田会員は、上記の観点から、山形市人口30万人ビジョンに賛同されるとともに、人口40万人減を当然視した県の計画の見直しを訴えています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
いけだ・あきら。1927年2月酒田市生まれ。1945年から山形県警察警察官となり、運転免許課長、米沢警察署長、交通部長、鶴岡警察署長、警備部長、山形警察署長などを歴任。その後、1983年から1986年まで八幡町助役を務めた後、行政書士二級建築士の資格を取得し、行政書士事務所を開設するとともに、有限会社イケダホーム代表取締役に就き、現在に至る。また、山形産業資源調査研究所所長として、県内各地の経済振興策を提起している。

竹槍訓練に参加しなかった少年時代

池田昭会員(1)

生まれは、鳥海山山麓の日向村。今でいうと、酒田市と合併した八幡町だ。農家の三男坊でね。小学校の成績は上位で、四年生からは級長を務めていたんだけど、当時の竹槍訓練などは、馬鹿らしくてな。理由をつけて休んでいたのよ。当時から合理的にものごとを考えるところがあったんだな。

青年学校に進んでからもトップの成績でね。農家を継ぐ必要もなかったから、進学を希望していた。お金はなかったけれども、校長推薦で中島飛行機がお金を出してくれる話になっていたのよ。

ところが、長男と次男が徴兵されてしまって、家の手伝いをしなければならなくなってね。しかも、1年の約束だったのに、当時の大火で家が焼けてしまい、その再建の借財を返さなくてはならなくなった。結局、4年かかってしまったのよ。

19歳になって、ようやく解放されて、当時、募集のあった少年警察官になったというわけだ。

拳銃自殺未遂事件を起こした暴虐署長

新任時代

警察の組織は、軍隊と違って、上官の命令が絶対というわけではなかった。入職は終戦後だったので、白は白、黒は黒と言える時代になったのもあるな。ただ、戦地帰りの上司のなかには、軍隊の文化が染みついた者もいたよ。でも、10人中8人はまともだったな。

24歳の時に、小国地区警察署に警備主任として着任した。庁舎には町警察も同居していたんだけど、その町警察署長の警部がとんでもない男でね。自分の処遇が不満で、毎日、署長室に部下を呼びつけ、立たせたまま、延々とののしり続ける部下いじめが日課になっていたのよ。

ある夜、当直勤務で火鉢を囲んで仲間と雑談していたところ、町警察の巡査が外から帰ってきて、署長に電話をかけているわけ。すると、盛んに電話の前で、すみません、すみませんと頭をさげていた。またかとおもい、電話が終わったところで、あまり気にしないようにと声をかけたのだけど。夜明けに官舎前で抗議の自殺をはかってしまった。

一か月ほど入院して回復はしたが、拳銃使用が規律違反であるとして処分されることになってね。公安委員と署長からなる懲戒審査会が開かれたんだ。私は、元気のよい若手町署員と語らって、事件の原因が署長のいじめであることを知らしめるために、その署員に弁護人として出席してもらったのよ。警察の懲戒審査委員会に弁護人が出るなどというのは、前代未聞だったな。

公安委員も驚いて、審査は紛糾した。けれども、結局、「理由はどうであれ拳銃を使用した責任は懲戒免職以外にない」ということになった。でも、それでは、退職金がもらえないわけだ。そこで、今度は、町長と相談し、町から相当額の見舞金を出してもらうことにした。最後に、私の家で送別会をして、家内の手料理で、励まし、ふるさとの鶴岡に送ったのよ。

時代遅れの検事総長通達を変更
―規則にとらわれてはならない

28歳の時、山形署交通主任(警部補)の時の話になるけれど、当時は、モータリゼーションが進んで、仕事量が膨れ上がっていた。ところが、交通違反事件の送致書類が旧態依然の複雑過ぎたもので、大きな支障をきたしていた。そこで、5枚くらいの一件書類を一枚に集約し簡素化した様式を考案して、山形地検の岡崎次席検事に持ち込んだんだ。

送致書類様式は最高検検事総長制定にかかわるものだから、改正は困難で、改正を上申しても、決まるまでは2年かかると言われていた。ところが、岡崎次席検事は「試験的実施」として、この様式の事件送致を受け入れると決断してくれたのよ。これが、全国に広まり、2年後に検事総長制定改正様式の原型にもなった。

規則はもちろん重要だ。でも、時代の変化に応じて、改めるべきは改めていかなければならない。これは、今日の土地利用規制についても同じだぞ。「法律で決まっているから」で停止してしまっては、何も前に進まない。

他にもな、当時は、運転免許試験受験者が上山の試験場に殺到していた。ところが、学科試験を受けるための教材が500頁ほどの道路交通法という法令集以外に無かったわけ。だから、学科試験が難関だった。そこで試験に出そうな問題とその答えを80ページにまとめた「自動車運転免許受験者合格の手引き。問答式道路交通法、試験場コース図解入り」を編集し、印刷実費の一冊20円で、交通安全協会から発売した。

これが爆発的に売れてな。受験者はもちろん、自動車のセールスマンも、まとめて100冊200冊と購入し、車を売るときに「これ一冊で学科試験は大丈夫」と活用したんだ。短期間のうちに何万部も発行し、これこそ時代のニーズに迅速に適応した取り組みであるとマスコミにも絶賛されたのよ。この本は、後の交通教本に活かされているよ。

第一次安保闘争で検挙者ゼロ人―規則には例外がある

警備課長時代

1960年(33歳)、警察大学校を卒業しての新任地が山形警察署警備課長だった。警備部というのは、情報機関だから、全県の政治行政の動きが入ってくる。表に出たものとしては、複数の県内市長の汚職事件、某社の社長交代劇なんかもあった。とんでもない話ばかりだぞ。

とはいえ、一番思い出深いのは、第一次安保闘争への対応だな。着任早々、毎日のように500人から3,000人規模のデモがくりかえされていてな。ただ、当時の私は、「この反対闘争は一過性のものであり、前途有為の学生たちを、検挙して、職業革命家の道に追いやってはいけない」と考えていた。

だから、闘争をできるだけ合法的におこなわせることが肝要であると考えた。つまり、公安条例による届出を確実におこなわせることだ。そこで、学生の指導者と私が直接接触して、必ず届出を行うこと、不法な暴力行動を慎むことを説得することにした。学生たちは、はじめは反抗的な態度をとっていたけれど、次第にこっちの気持ちも理解して、素直に説得をうけいれるようになってな。

山形の学生運動

ところが、公安条例ではデモの届け出は72時間前に行う事と定められていた。学生たちも熱が入り、「明日、デモをするぞ」となることもあるわけだ。それでは、届出が間に合わない。そんな時には、その情報を私がキャッチすると、学生のところまで行って、届け出を出させたんだ。当時の原田署長が、自分の責任で受理すると言ってくれて、公安委員会も理解してくれた。結果、年間百数十回に及ぶデモで、無届はひとつもなかった。

周辺の他県では、無届デモが相次いで、渦巻きデモで警察官との衝突が頻発し、大勢の学生が検挙されて、退学処分になっていた。検挙逮捕退学者ゼロの記録は全国的にも例が少なく、人に優しい警察運営として、生涯最高の思い出だな。

自動車学校指導員資格試験への対策
―厳しすぎる行政規則は誰のためか

次に、1970年(43歳)の運転免許課長になったときの話をしよう。モータリゼーションもいっそう進んでいて、自動車学校で指導員が足りなくなって、悲鳴をあげていたのよ。指導員の資格認定は警察の仕事で、厳しい試験を行っていた。合格率は10%に満たなかった。

もっと指導員を増やして欲しいという社会の強い期待と要請があったにもかかわらず、それに背をむけて、落として楽しんでいるに等しい態度をとり続けていたんだ。その結果、汚職事件も発生する。そういうことなの。

そこで、私は、免許課長就任と同時に、改善に取り組んだ。指導員資格受験者を免許センターに集めて一週間の研修を行い、十分実力をつけさせてから、最後に試験を行うことにしたのよ。その結果、合格率が70%を超えて、これを数回繰り返して全県の指導員を80人から160人に倍増させた。その結果、運転者も大量養成することができたわけだ。

また、当時は、運転者再教育用の実地訓練施設の土地もなかった。そこで、立谷川の河川敷を利用しようと考えたんだ。県の河川課長に赴き、申し入れたところ、課長は法令集を取り出し「規定では、河川敷を活用できる事項に自動車の運転練習はないので、利用できない」というわけよ。

ところが、規定をちらりと見ると「原則として」と書いてある。すかさず「例外があってもよいのではないか。この規定が施行された頃は車社会でなかったが、情勢が変化している。また、立谷川は山形県民の河である、管理を建設省に任せているに過ぎない。したがって、県民の多くが幸せになるための利用を、建設省が拒むはずがないのではないか」と訴えた。

さすが、東大工学部出身の若い河川課長は、すぐに共鳴して、それでは建設省と折衝しましょうと協力を約して、てきぱきと手続きを進めて、最後に私を上京させて建設省幹部との協議に持ち込み、了解を得ることができた。

山形警察署長時代

他にも、鶴岡署長時代の交通安全協会長の協会私物化の是正、山形署長時代の公開捜査の原則化による検挙率80%の達成、花火大会に際しての駐車禁止規定の解除、蔵王街道の深夜除雪など、さまざまな取り組みを行ってきた。

要は、社会情勢の変化に対応して、公正性を保った上で、柔軟な対策を打つことが大切だということだ。今も、あらゆる面で同様の不合理な事案が山積している。「規則だからだめ」というのは怠け者の逃げ口上だ。現実の身近な矛盾に目を開き、勇気を持って大胆に改善しなければならんのよ。

土地利用規制の問題に直面する―八幡町助役として

退官後は、生まれ故郷の八幡町助役に転じることになった。前町長が八幡町立病院長とともに、町を私物化しているとの批判があってな。そこで、当時の助役が町長選に立候補し、当選したんだ。ところが、町議会は前町長派の議員が多数を占めているものだから、新しい助役が決まらなかった。そこで、どちらの派閥にも属さない、私に声がかかったということなの。

しかし、助役に就いてみると、規則主義による思考停止という警察官時代とまったく同じ問題に直面した。「何を馬鹿なことをやっているんだ」という毎日だった。

たとえば、一条小学校の建て替え時期でね。その校舎建設の予定地が土地改良補助を受けた土地だから8年間転用できないと県関係職員が言うわけ。7か月も抵抗するもんだから、教育長が手をやいていた。

そこで、法令集を取り寄せ検討してみたら、実際は農政局長通達で、民間で転用した場合は補助金を返還させるというだけのものだった。つまり、町の事業に転用するなら、補助金は返還しなくともよく、転用も禁じられていないのよ。そこで、県農林水産部長まで持ち込んで一挙に解決したんだけれども、庄内支庁と県農林関係職員は誰もその通達を見ていまかった。とんでもない怠慢だった。

それでよ、助役に就任するときには、鳥海山の観光開発を任せると言われていたんだ。鳥海山東側は冬の季節風の関係で無風の豪雪地帯だ。しかも広大な斜面があるので、スキーをやるにはもってこいの土地だった。他にもゴルフもできるし、ホテルの土地もあるしで、スポーツ産業の国際的メッカにもなれると考えて、具体的な計画を立てた。

西武でも東武でも、やってくれるところであればどこでもよいから、始めに地元資本とつながりのある東武資本を誘致しようとしたが断られた。蔵王とのパイの奪い合いになると考えたんだ。そこで、西武と交渉したところ、西武鉄道堤義明氏と直接会うことができて、全面協力を約束してくれたんだ。しかも、スキー場のほか、ホテル、ゴルフ場、奥山林道の改修も、西武で資金を出してくれるという好条件でな。当時、第三セクターで事業をおこして、失敗して、今は、借金まみれになっている自治体があるけれど、そんなのとは違う、有望な計画だった。

ところが、当初は、県の許可があれば、翌年にも着工できるという計画だったのに、県の自然保護課が、延々と計画の変更、変更を繰り返し命じたんだ。そのあげく、13年目に「やめろ、やめないとただでおかないぞ」と環境部長が、町長と担当室長を恫喝して、町長も態度を豹変させてな。計画が全面撤回になってしまった。

表向きの反対は環境保護ということだけれども、裏では観光資本をめぐる政治的な争いがあって、政治家が暗躍していた。板垣知事の次に就任した高橋知事は許可する方向で動いてくれていたけれど、最後に力尽きてしまった。

実際、環境保護の象徴とされたのがイヌワシだけれども、私が助役当時は、鳥海山全体で拾つがい二十羽生息していたのに、結局、何もせずに放置しているものだから、山が荒れ、ウサギや山鳥がいなくなり、イヌワシどうしで殺し合い、一つがい二羽のみになっているよ。

西川町の大井沢でも似たような話があって、その計画はまだあきらめていないけれども、それはともかく、私は一期で助役を辞することになった。というのも、町長は、年間、会議出張で百三十八回も出かけておきながら、その内容については一回も伝達なく、要は、物見遊山をしていた。戒めても聞き入られず、次期の町長選への協力を拒否して、助役を退任したというわけだ。

ただ、それで余生を過ごすという発想にはならなかった。『60歳からの生き方』という本がベストセラーになっていて、それに影響を受けた。警察官時代には「定年後に雇ってもらおう」などと媚態をさらした生き方をしてこなかったから、自営を考えた。それで、行政書士宅建二級建築士の資格を取って、行政書士事務所を立ち上げて、イケダホームの取締役にもついて、農園も経営することにした。その傍らで、土地利用規制をめぐる問題も提起しているのよ。

土地利用規制による既存産業の保護と衰退

ここで、土地利用規制について、改めて話しておこうか。山形県には、平坦な土地(可住地)が35万ヘクタール(10億坪)あるけれども、うち85%が農業振興(農振)地域に指定されており、農業以外の土地利用が規制されている。

それがすべて農業に使われていればまだしも、実際には、平坦な山林原野などが16万ヘクタールあり、農地についても、耕作放棄地・休耕地など、使われていない土地が4万ヘクタールもある。つまり、合計20万ヘクタールが、平坦な土地ながら、ほったらかしにされている。実際に、宅地や企業が立地しているのは、可住地のわずか8%にすぎない。それでいて、「山形には土地がない、土地が高い」といっている。

どうして、これだけの土地が農振に指定されているのか。農振法が制定されたのは1966年だけれど、食糧自給率の維持のために、将来的な土地改良事業予定地を確保するために、農振指定がなされたのよ。当時の農林省からは、「将来、ブルドーザーでならして農地に使えそうな土地はすべて農振に指定せよ」との指導があり、平坦な山林原野も含めていっきに農振指定された。

そして、この土地改良事業差配が政治家の利権になった。山形でも、かつて、ある政治家が農業団体役員として総会に出るだけで多額の報酬を得ていて、しかも、会員を水増しして補助金数千万円を詐取していたことが内部告発され、政府の要職を失うということがあっただろう。実は、同様の事件が県内他の団体にもあり、県はその対応に苦慮したんだ。

けれども、農振法制定から40年が経過し、水田の構造改善事業などの土地改良事業がほぼ終わり、米の生産力は高まり、逆に、今や米余りで、開田も全面禁止になっている。ところが、過大な農振地域指定はそのままだ。しかも、山形では、ほとんどが、最も規制の厳しい一種指定になっている。

その結果、平坦な土地で空いているのに、宅地開発も行えず、事業用地としても利用できず、農家もまた、六次産業化で食品工場を建てたいと思っても認めらないという事態になっている。都市計画における市街化調整区域についても同じことが言える。実際の例をいくつか紹介すると、こんな具合だ。

  • 農業協同組合が支援して、山形市上山市に、農家の直売店舗を出させようとしたが、許可がおりず、断念。
  • 県庁周辺に商業地域がない。
  • 上山市藤吾温泉では、地元農家が集まり、温泉を掘り当てたにもかかわらず、19年間、その利用が許可されず。
  • 天童市の音響メーカーが本社の隣地に工場の建築を計画したが許可されず。
  • 山形市の身障者の団体が会員所有の農地の提供を受けて自力で作業所を建設しようとしたが許可されず。
  • 庄内町で、最上川沿いの耕作放棄地に風力発電機を造りたいとの企業があるのに農振地域を理由に許可されず。
  • 百目鬼温泉、保養センターの許可に5年、塩製造工場許可まで3年かかった。
  • 自治会館に間借りしていた健康保険組合連合会が、独自の事務所建設を企画したが、山形市に用地が確保できず、寒河江市に移転。

さらに言えば、こうした厳しい規制が、新たな政治家への賄賂を誘発している。つまり、選挙にからめて、ことさらにもったいつけたり、「口利き」の見返りを求めるなどといったことだ。実際、多くの疑獄事件が、この土地利用に関する許可をめぐって発生している。逆に、既存産業の保護のために、政治家が働きかけて、新たな土地利用を許可しないということも起きている―心ある自治体職員が、このことを教えてくれている―。上の事例のなかにも、そうしたものがある。

土地利用規制は首長の権限で解除できる

池田昭会員(2)

しかし、実際のところ、首長の権限で、経済情勢の変更に応じた農振解除や変更はいつでもできるのよ。第七条に「経済事情の変動その他情勢の推移により必要が生じたときは遅滞なくその指定した農業振興地域の区域を変更し又はその指定を解除する」と規定されている。その上で、民間の事業を受け入れることにすれば良いだけのことだ。

実際、天童市では、芳賀地区70ヘクタールの農振を解除して、そのかなりの部分を準工業地域に指定し、企業を誘導し、職住近接の複合都市街を造り、多くの雇用を確保している。上山市長も、反対を押し切って、みはらしの丘準工業地域に大型商業施設の立地を認め、用途指定を近隣商業地域に変更している。山形市でも、新市長が誕生し、人口30万人ビジョンを掲げ、土地利用規制の見直しを明言している。

役人のなかには、「先頭走って躓くな。びりでは目立ち過ぎる。びりから二番目、三番目のところをトコトコ走ってゆくのが、役人のいちばん上手な生き方である」などと吹聴する者がいる。山形県も、土地利用規制問題について何も知らない人口問題研究所の推計を鵜呑みにして、人口112万人が、将来79万人になるという総合戦略なるものを発表している。

ところが、この計画に県首脳も、代議士、県議、マスコミも、なんの批判も反応もしない。呆れて言うべき言葉なしだ。県民所得が東京の約半分なのに、そんな県の職員にはその何倍もの給与報酬を税金で払っているのだから、バカらしくなってしまう。もちろん、「農振はおっかなくて手を出せない」と本音を打ち明けてくれる「心ある」役人もいる。だから、あとは、新たな山形市長のように、勇気を持つことだ。

もちろん、いたずらに農振を解除して、民間に任せれば、乱開発を招くだけだという批判はあるだろう。しかし、都市計画区域内では、準工業地域に指定するとともに地区計画を策定することで、乱開発を防ぐなど、手法はいくらでもある。規制があるから何もやらないというのが、一番の悪だ。

コンパクトシティの意味をはき違えて、何百億円もかけて市街地再開発をやっているが、それで誰が得をしているのか? 詳しくは、私のホームページを見てほしい。宅建協会五十周年記念論文優秀賞を受賞した私の論文など、農振解除による具体的な産業振興を提案している。

政策研究ネットワーク山形に求めること
―自己満足で終わらない政策研究が必要

山形にもいろいろな研究会があるけれども、すぐれた成果を上げているところはないな。体制批判を避けて、枝葉末節ばかり議論しているからだ。勉強にはなるけれども、社会の変革にはつながらない。問題の核心をついた政策研究が必要だ。それがなければ、自己満足で終わってしまう。

県民の最大の関心事は、地方の人口減少、産業衰退の問題だろう。どうして、人口が減っていくのか。これまでに話したように、不合理な土地利用規制により、既存産業が保護され、新たな産業が生まれず、その既存産業が衰退し、働く場が減っているからだ。

だから、この問題点を認識した民間マインドを持った人材にもっと広く参画してもらうことが必要だ。そのうえで、実践的な研究を行うこと、さらには、そうした研究によって社会にどのような貢献がなされたのかという事後検証も必要だろう。大いに期待しているよ。

(2016年10月30日インタビュー:聴き手&構成:伊藤嘉高)

池田昭会員&伊藤嘉高会員

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第2回勉強会(11月26日)のお知らせ

ミーティング

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。

第2回勉強会を11月26日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

seisakunet.hateblo.jp

第2回勉強会のお知らせ

第2回勉強会では、第1回勉強会で挙がった下記の論点を具体的に検討するために、下記会員より、15分程度、それぞれの現場から客観的なデータをご提示いただきます。その上で、参加者の間で、立場や党派を離れて、データと経験知に基づく議論を行いたいと思います。

  • 日時:11月26日(土)13時30分~16時00分
  • 場所:山形大学人文学部棟1号館2階25演習室(駐車場あり。場所が分からない方は、正門横の守衛室でお尋ねください)
  • 報告者(タイトルは仮):
    • 梅津庸成会員「国政における地方創生の〈いま〉」
    • 小野仁会員「山形市における地方創生の〈いま〉」
    • 草苅裕介会員「農業における地方創生の〈いま〉」
  • facebookページ https://www.facebook.com/events/311660489212177/

※ご参加頂ける方は、11月24日までに事務局までご連絡ください(facebookアカウントをお持ちの方は、上記Facebookページでも参加申し込みを受け付けています)。

 第1回勉強会のまとめ

9月3日、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第1回勉強会が開催されました。

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各方面から22名の方が集まり、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。第一回はキックオフということで、人口ビジョンと総合戦略の全体像と課題を把握することが狙いでしたが、各参加者から活発なご発言が相次ぎ、今後の議論の方向性もさまざまに示唆されました。ある程度、共通理解の得られた主な論点のみを簡単に整理すると以下の通りです。

まず、現下の地方創生事業は、(バラマキに終始するのではなく、選択と集中を促すという点では)これまでと異なるものの、国と地方の枠組みを変える仕掛けはなく、その点で、従来の交付金事業と変わりはないのではないか、との指摘がさまざまになされました。

したがって、地方創生事業が人の大きな流れを変えるだけのポテンシャルを持ちうるものなのかという点からの検証が必要です(東根市や天童市の人口増も、東根以北からの人口流出という社会的条件が背景にあって生まれているのであって、政策そのものが人口増の直接的な原因ではないとの意見もありました)。

そのなかで、山形市は、人口30万人ビジョンを掲げています。上記の点から、その実現に向けての課題(場合によっては、実現可能性そのもの)を明らかにするとともに、都市計画や土地利用計画との整合性や財政の自立性、他の市町・県との関係なども考える必要があります。

さらには、従来の都市計画に典型的に見られるように「上から」空間をゾーニングすることで都市を発展させるスキームの限界も指摘されました。空き地や空き家が増えていく今日の歯抜け型の都市空間を前提にした新たな都市計画が必要とされています。

実際に、そうした空間を共同利用の場として位置づけ、そこから自立的な社会経済活動を生み出そうとする人びとに対して、行政が支援・補助するといった「下からの」政策も行われています鶴岡市の取り組みなど)。

 

会員紹介(第6回)齋藤直希会員(障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表)

会員インタビュー

第6回会員紹介は、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」代表の齋藤直希会員です(2016年9月18日インタビュー)。先天性の重度障害者でありながら、さまざまな「社会の障害」をも乗り越え、普通高校、大学で学んだ経験と専門の法律を土台に、障害のある人とない人との相互理解に基づく政策研究の場を作っておられます。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まって、形の人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

齋藤直希会員プロフィール
さいとう・なおき。1973年7月上山市生まれ。県立上山養護学校、県立ゆきわり養護学校を経て、肢体不自由者でありながら、県立山形中央高校に入学。同校卒業後、山形大学人文学部に進学し、法学を専攻し、在学中に行政書士の資格を取得。現在は、障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形・代表、ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)・代表。

厳しい「訓練」と養護学校の生活

齋藤直希会員01

たいていの子どもは、生まれてから半年までには首がすわるそうですね。ただ、私の場合は、なかなか首がすわらなかったようです。やがて、「脳性麻痺ではないか」という話になり、2年ほどの判定期間を経て、79年に障害者認定されました。

自分が「他の人とは違うな」と自覚し始めたのは、3~4歳の頃です。「訓練」がきっかけです。極わずかの親族のなかには「障害者を外に出すな」ということを言う者もいたのですが、母が、そうした反対を文字通り「死ぬ思いで」振り払って、訓練に連れ出してくれていました。ただ、当時の訓練は、とにかく「健常者に近づくこと」が目標でした。周りの人も母もそれが正しいことだと思って、厳しい訓練が行われていました。

子どもとしては、そうした訓練を受けるなかで、「どうして自分ばかり」という思いを持つようになったわけです。私には姉がいて、その姉はそうした訓練をしていませんでしたし、障害に理解のない極わずかの親族からは人間扱いされていなかったので、「自分は他の人とは違うんだ」と思うようになったんです。

ただ、とはいっても、肢体不自由者の通う上山養護学校(現・ゆきわり養護学校)に入学すると、周りの同級生3~5人は、同じように障害のある子だったし、程度の差はありましたが、周りの大人も障害のことを理解してくれる人たちに囲まれて生活することになりました。なので、「他の人と違う」ということを過剰に意識して、卑屈になることはありませんでした。

たとえば、9歳のころに、給食をボイコットしたことがあります。給食の前が体育の時間だったのですが、ドッジボールを片付けることになって、先生から「あと3分で片付けましょうね~。できなければ、給食抜きだよ~。約束だからね~。」と言われたんです。だから、一生懸命片付けたのですが、1分ほど遅れてしまいました。だから「給食抜きか」と思っていたら、先生が「冗談だよ~。言葉のあやだよ~。給食を食べなさいよ~。」と言うんです。

そこで、当時“マセガキな”私は頭に来たんですね。「ふだん『約束をしたら守りなさい』と教えるのは、先生の方じゃないですか。そんな先生の方から約束を破るの?先生は『約束を破ること』をすすめるの?」と食ってかかったんです。そんな具合に、誰とでも議論をするのが好きな、よく話す人間と見られていました。養護学校には寄宿舎もあって、だから、養護学校の先生は、親や兄弟のような存在でもあったんです。

友との出会いと普通高校進学の決意
―「死なない限り、何でも我慢できる」

ゆきわり養護学校

人生の転機になったのが、小学4年の10歳のときに起きた両股関節脱臼です。主治医の判断で手術をしなければならなくなったのですが、その結果、あぐらを組むことすらできなくなってしまいました。これまで一生懸命、訓練してきたのに、それが無駄になり、さらに、もうこれ以上、訓練しても、身体の機能は良くならないという状態になってしまったのです。

「両股関節」という観点で考えると主治医の判断は決して間違ってはいなかったんですね。ただし、「脳性麻痺障がい児の全身の運動機能」という観点でいえば、他に様々な考え方もあることが、後々になってわかりました。とはいえ、「脳性麻痺」に関する医学的研究も今とは全く違うので、「時代のいたずら」と、今の私は理解しております。

ただ、その時、私は療育訓練センターに入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に転校することになったんです。そこでは、同学年の結城君と佐藤君も入所・入院し、併設のゆきわり養護学校に在学していました。一人は元々健常者で手術が必要になり、一人は乳幼児期の脳幹障害で入所していました。この二人ととても仲が良くなりましたが、お互い連絡先を交換することもなく、治療を終えた私は、療育訓練センターを退所して、元々の上山養護学校の方に戻ったわけです。

ですが、そのような形で一度別れた結城君と佐藤君ですが、私が中学2年に上がるときに、上山養護学校とゆきわり養護学校が合併することになり、不思議な運命に絡まって、みんなと再会することになったのです。そのとき、「一緒に普通高校に行こう」という話を2人に持ちかけられたんですね。小学4年生のときの結果とはいえ、体はこれ以上良くならないのだから、あとは勉強するしかないと決意しました。

このことを母親に相談したところ、こう厳しく言われました。「気持ちは良く分かる。でも、遊び行くところじゃないんだぞ。どんな辛い目にあうか分からない。廊下で授業を受けさせられるかもしれない。覚悟はあるのか」と。

当時の私は、学校の始業前の1時間、終業後の1時間、人よりも早く登校し、遅く下校して、春・夏・秋はもちろん、真冬も暖房のかからない冷え切った体育館や部屋等で訓練をしていたので、「死なない限り、何でも我慢できる」と思っていました。だから、「母親が介助してくれるなら、大丈夫、平気だ」と答えたんです。

とはいえ、養護学校の先生も保守的な先生が多かったので、説得するのが大変でした。まずは、学力面で心配されたので、アマチュア無線4級をとって、英検3級を取りました。さらに、幸運なことに、読書感想文全国コンクールで山形県最優秀賞受賞、全国大会についてノミネートされる事になり、全国大会で3~4位に相当する全国学図書館協議会長賞を取りました。

www.dokusyokansoubun.jp

もうひとつ運の良かったことがありました。養護学校の校長として新たに石澤先生が赴任なされたことです。石澤先生は、私たち―とくに母親―が真剣であり、口だけでないことを理解してくださり、高校側との交渉を引き受けて下さいました。

というのも、当時は、高校入試を受けて、合格点が取れれば、それで入学させてくれるというわけではないからです。地域によっては、公立私立を問わず、障害のある者が高校入試を受けたり高校に入学することについて裁判になり得た時代だったのです。

そのため、模試を受けて学力があることを示す事はもちろん、受験後の「入学」「通学」その他の学校生活に関する事柄において、あらかじめ交渉をして許可をもらわなければならないのです。ちなみに、私立との併願もできませんでした。校長先生が言うには、「両方受かれば、押し付け合いになるから」です。

ちなみに、現代においても、複数の関係者から、「介助を必要とする重度障害児の生徒さんが、養護学校や特別支援学校から直接、普通高等学校に進学することの『壁』は、まだまだ高いよ」という話を、よく耳にしており、今の私は、複雑な想いにかられます。

見下す先生、励ます先生

齋藤直希会員02

当初は、学力的に入れそうな、とある公立の進学校を希望していました。模試は、鉛筆を口で取り、不自由な手に運ぶような状態であるにもかかわらず、周りの人と同じ試験時間しかありませんでした。そこで、母親は「8割書いて、それが正解であれば、400点はとれる」と言うわけです。それを実践して、実際に、400点をとることができていました。

学力的には問題ないと考えて、希望していた進学校を、養護学校の校長先生と母親が訪問したのですが、そのとき、保健の先生から「なぜ、あなたのような生徒が、うちの学校を選ぶのか」と見下したものの言い方をしたんです。 帰りに、別の先生が謝ってくれましたが、「とてもくやしかった」と母親は養護学校の校長室で号泣したそうです。

ところが、養護学校の中でそこそこの責任のある先生なのでしたが、その先生お一人だけでしたが、そのことを知ると「当然だ。障害者はみじめだ」というのです。自分たちの決意を応援してくれる人は数多くまでとは言えないかもしれませんが、少なからずおりました。しかしながら、「判断に迷う」「戸惑う」という考え方の先生方も存在して居られました。

そうした状況を踏まえて、こう考えるようになりました。無理にこの学校に入って、中途半端な成績を取るようでは、周りからどう考えられるか分からない。そもそも、併願はできないので、入試に落ちたら、普通高校進学が断たれてしまう。当時この学校の校舎は4階建てで、おんぶをして階段を上り下りする母親の負担が重すぎる。そして何よりも、「将来は山形大学に進学して法律を学びたい」という夢の道を、確実に歩んでいきたいと考え直しました。その結果、3階建ての山形中央高校に進学先を変えました。

山形中央高校での生活―完全な別世界

山形中央高校

山形中央高校の先生は、すぐに養護学校に見学に来てくれて、「頑張れ」と言ってくれました。卒業後、10年くらい後に伝聞で聞いたことですが、それでも、実際に、入試後の判定会議では、合格点を取っていたにもかかわらず、合格させるかどうか賛否が半々に分かれたそうです。

結果的には、「入学後の学校生活が無理なら、学生本人親子自ら退学を選ぶかもしれないし、もしそのように本人親子たち自ら動かない場合は不本意ではあるが、退学させるしか道は無いし、その道も残されている」ということで、賛成派側も反対派側も話し合いの上で、合格になりました。この逸話も卒業後10年後の話の時に、聞いた話です。

高校に入ると、それまでとは別世界です。違和感ばかり。完全なアウェーです。もちろん、学校側は、出入り口に緩やかな坂をつけたり、車椅子にあわせた机を作って教室や理科室においたりしてくれました。

それでも、周りの生徒からは、「なんでここに、障害者―実際には、当時の高校生に身近な存在としての「『障害者』という概念や言葉等」はなく、「遠い存在」のような感じで、「テレビで見るような体の不自由な人」―がいるの?」といった目が向けられました。当時は、社会一般的に、障害者用トイレなどもありませんでしたし、車いすを見たことすらないというのが当たり前でした。

ただ、差別意識がどうこうというよりは―入学当初、挨拶をしても無視する先生も極まれにいましたが、もちろん、その先生は、3年生くらい頃からようやく挨拶してくれるようになりました―、お互いにどう接したら良いのか分からなかったというのが大きかったようです。

周りの皆様が障害者のことを、よく知らかったようなのは、私が健常者のことを知らなかったのと同じなんですね。生い立ちも含めて、それまでの生活がまったく違うし、同じ中学の友達がいるわけでもないし、一緒に登下校することもないし、部活もできないし、いつも母親がいるし、すべての行動パターンが違うわけです。私も、自分から話しかけようと努力しましたが、何を話したら良いのか私自身がわからなかったのです。

だから、最初の一年は、自分から壁をつくってしまいました。「俺は友達を作るために普通高校に来たのではない。勉強しに来たのだ。遊びに来たわけではない。」というふうにです。それでも、先生の働きかけもあって、10回に1回ぐらいかな、同級生が母親の代わりに私自身を車椅子ごと担いで、階段を上り下りしてくれましたし、1年生の最後のクラスについての感想文では、「私がいたことで、クラスにまとまりが生まれて、良いクラスだった。このクラスメイトとまた学びたい」といった内容がほとんどで、ありがたかったです。

2年生、3年生になると、受験勉強が共通のテーマになっていき、勉強の質問とか、ノートを見せてもらうなど、コミュニケーションをだんだん取れるようになりましたが、殻に閉じこもってしまった自分のキャラクターを変えるまでには至りませんでした。

一方で、母は「人に迷惑をかけてはいけない」という人で、介助のかたわらで、購買部の手伝いをしたり、草むしりや掃除といった用務員の手伝いをしたり、同級生の女の子と仲良くなったりして―禁止されているおやつを隠れて他の生徒がコンビニで買って来た物を一時的に預かって隠してあげたりといった、いけないこともしていたようです(笑)―、卒業式の際には母親に感謝状までいただきました。

いずれにせよ、学校の皆さんと母親のおかげで、私は三年間、無遅刻、無欠席、無早退で通学することができたのです。このことが、いかに大変で、そして、いかにありがたいことであったのかは、私たち親子と山形中央高校のことが、当時の朝日新聞の「天声人語」で取り上げていただき、参議院の文教委員会の方でも取り上げられたことからも、お分かりいただけるのではないでしょうか。

山形大学入学―「障害者でも入れるレベルの低い大学」?

こうして、念願だった山形大学人文学部に入学することになりました。県内のすべてのマスコミが取材にやって来て、全国誌の週刊誌まで取材依頼がありましたが、それは断りました。「別に大したことをしたわけではない、自分は勉強しただけだ、周りに恵まれた結果である」と思っていたので、変に取り上げてほしくなかったのです。

そもそも法律を学びたいと思ったのは、小学生の頃にさかのぼります。当時から日本史が好きで、時代によって「決まり」があり、それが社会や一人ひとりの人間と深く関わっていることに興味を持っていました。その「決まり」というのが、例えば聖徳太子の時代であれば十七条憲法、というように、時代と共に、大宝律令武家諸法度、などなど、今日の日本国憲法に至るまでの「法律」でした。

ただし、ここで触れたのは「近代法学としての『法律』」というよりは、ただ単に子供の頃から日本の歴史の好きな一人の人間が感じた「社会の中にある『決まり』という意味での『法律』」という意味に、過ぎませんでしたが……。とはいえ、障害をきっかけとした私の身近に関わる問題も、法律を勉強することで、解決することができるのでは、と子どもの頃から子どもなりに考えてもいました。

大学に入って、ようやく、本来の自分のキャラクターを取り戻すことができました。大学はいろいろなバックグラウンドを持った人が集まっているし、先生も講義の内容もさまざまです。とくに、模擬裁判の活動に参加したことで出会った多くの先輩と、2年生になってから友達になったI君から大きな影響を受けました。

I君は講義室の最前列で講義を受けるような真面目な学生でした。2年生にもなると、先生の板書も少なくなり、ノートを取るのが大変になっていたので、I君にノートを見せてくれるようお願いしたのです。そうしたら、「話はわかった」と言いつつ、逆に「話を聞いてくれ」と言って、こんなことを言ってくれたのです。

僕は障害者でも入れるレベルの低い大学に入ってしまったと入学当初のころ思っていたが、それは間違っていた。なおき君とお母さんの頑張りが尋常ではなかったのだ、と気づいたんだ。だから、手伝うのはやぶさかではない。とはいえ、授業が必ず一緒になるとは限らない。望むノートを渡せるとも限らない。私は、たとえて言うなら『スーパーマン』じゃないんだよね。君のことを理解しきりたいのだけれど、分かり切ることは出来ない。僕が僕自身で僕の体を1週間手足を縛られても、君の障害の苦しさとか、全てを理解するのは無理だと思うんだ。なぜなら、僕の場合は1週間立てば元通り。君の場合は、生涯にわたってそのままの体なわけだから……。だから、僕の出来ることなら喜んで手伝いたいんだ。だけど、君の望む全てが出来るかどうか、わからないという事を、君にはわかっててもらいたいんだ。

もちろん、自分はそこまで求めるつもりはありませんでしたが、彼は真面目だから、「手伝う以上は真剣に」という気持ちから、あえて、自分の事情を伝えようとしたんですね。そして、それが、彼にとっては大切なことだったのです。私は、この言葉に眼が開かれました。

つまり、「障害者だから助けてもらう」のではないし、「健常者だから助けてあげる」のでもない。私は、一生懸命頑張っているが、それでもできないことがある。だから、できる範囲で助けてほしい。それに対して、I君は、私のことは理解できるので、自分にも限界はあるが、できることはしよう。それだけのことなのです。

普通にコミュニケーションをして、納得をして、付き合って、影響を受け合って、変わっていけば良いだけなのです。「障害者だから」「健常者だから」ということから、コミュニケーションを始めるのではない、ということです。

相互理解の上に成り立つ法と制度
―障害者差別解消法をめぐって

齋藤×伊藤

実際、法律を学ぶなかで理解した大きなことの一つが、法律によって人の心情を変えることはできないということです。「法律によって人の心を強制することが許され」れば、それでは憲法違反です。 では、福祉の法や制度は、何のために必要か。

「障害者だから」という観点でコミュニケーションしようがしまいが、実際には、障害者なので、さまざまな面で社会的な支援を必要としています。その支援をすべて、目の前のコミュニケーション、人間関係で成り立たせようとしたら、その関係は破綻してしまいます。

法や制度による支援があって―私の生活は多くの人の税金によって成り立っています―、特定の相手に過度の迷惑を掛けずに済むことになり、初めて、目の前のボランタリーな人間関係が成り立ち、相互理解が成り立つ。つまり、「障害者だから」「健常者だから」ではない“自由な”コミュニケーションができるのです。

そもそも論を言えば、法律が必要とされる理由は、簡単に言えば、「社会秩序の維持のため」にあります。「社会あるところ法あり」という法諺―法律に関する格言―がありますが、これを端的に示しています。ただこれは、昔の「決まり」とは違って、現代では、「『法律によって社会秩序を守る』ことによって、社会を形作る一人ひとりの『個々人の自由を守る』などのためにある」などと、されています。「なぜ法律があるの?」という理由のようなモノですね。

ですので、「社会の変化」に伴い、「法律や制度が変わる」ということにもなるわけです。社会の変化や問題に対して、すべて法制度が変化して対応出来るというのは、現実的に困難ではありますが、法律というものが、社会の変化に対する「社会秩序の維持や問題解決を与える手段の一つ」として、存在しているということは、おそらく間違いないと考えます。

そのような形で、法律があることで社会が守られることにより、一人ひとりの個々人である市民が、“自由”を守られ、自由な活動が出来るものと、私は考えております。そして、そう言った「自由が守られること」により、自由なコミュニケーションが出来るものと私は考えています。

たとえば、今年の4月から障害者差別解消法が施行されました。これによって、障害を理由とした「不当な差別的扱い」を行うことが法的に禁止され、公的機関では、当事者の申し出に応じて、過度の負担にならない範囲で、社会的障壁を取り除くよう、調整や工夫を行うこと、つまり、「合理的配慮」を行うことが法的義務とされました(民間事業所は努力義務です)。

法の施行に当たり、2014年に山形でもシンポジウムが開かれたのですが、そのとき、参加者の方の一人が、「障害者差別解消法は、錦の御旗のように、使えるかも!」といった趣旨の発言をなさいました。私は、先ほど述べた「法律によって人の心情を変えることはできない」という理由から、それでは、むしろ危うい方向に進むことになりかねず、障害者と健常者の相互理解には結びつかないと思いました。

他方で、障害者のなかにも、自分で出来ることを怠りつつ、それでいて、ただ「社会が悪い」「周りが悪い」と言って、一方的に要求する態度を取る人たちが、少ないでしょうが現実に存在します。そうした人たちにはそうした人たちの考えがあるのでしょう。それを「否定する権利」は私にはないので否定しませんし、否定できません。しかし、それだけでは、真面目に“障害者の方を理解しようと考えている”健常者の理解は得られないのではないかと、私は感じます。

障害者が、健常者と同じようにはできないのは厳然たる事実です。それでも、「必要十分な支援を受けながら」であることは必須事項となりますが、そのような支援を受けながらも、「自分なりに出来ることはやらなければ」、同じ一人の人間として向き合うことができないと考えています。

そして、「自分なりに『出来ること』」ということは、別段、たいしたことでなくて良いと思います。「ご飯を食べること」「散歩に出ること」といった日常生活的なことや、さらには、障害者やその障害の種別や軽い重いの違いや、疾病や難病などの原因の違いを踏まえた上で(元々、誰ひとりとして同じ能力や性格のヒトはいない“違いのある存在”ですが)「“同じ人間”として関わること」だと思います。そして、こうした「自分なりに『出来ること』」は、そのヒト当事者のペースで、休みながらで良いとも、私は思うのです。

障害者だからといって、ことさら「努力の人」になる必要もなく、ことさら「(心など)キレイな道徳的な人」でなければならないとは、私は考えておりません。これもまた、障害者等や健常者との“違い”なくと言いますか、「社会に存在する、ただの単なる一人の人間」としての感じ方と、似たようなかたちで良いと私個人は思うのです。

だからこそ、「みんな違う存在としての『相互理解』を促進する」ことこそが、大事なのではないかと、私個人は考えますし、そのために「様々な背景を持つ方々との自由なコミュニケーションが必要不可欠なのでは」と感じますし、その「自由なコミュニケーションを守るための一つの手段」として、法律や制度も大切であると、私個人は考えるのです。

残念ながら、山形の障害者は、これまで外に出て行く機会が少なく、障害者運動のようなものも大同団結のような大きな動きは極めて少ないとの印象を私はもっております。そうしたなかで、外から法律だけがやってきているのです。

本来であれば、私たち障害当事者自身がもっと外に出て、自分たちを知ってもらうとともに、自分たち以外のことを知るようにしなければなりません。障害当事者が外に出るための支援が必要であるならば、障害当事者が動くべきであると私個人は考えます。

つまり、社会システムにのっとった形で、様々な人に働きかけると共に、社会全体に働きかけること。そして、その延長線上に、福祉行政などに働きかけて、「多くの障害者が、広く実質的な平等性を踏まえて、個々の障害者の現状をかんがみた支援を受けられる」ように働きかけることです。「一人だけ」とか「障害者や難病者の方の中でも特定の誰かのみ」というような限られた人だけが、支援を受けることができるような社会システムでは芳しくないと、私個人は感じるのです。

実際、合理的配慮が求められる時代になっても、例えば普通高校の壁は依然として高いですし、そもそも通学の介助は介護保険障害福祉の対象にならない、といった介護保険法や障害者総合支援法の規定を多くの人は知りません。 障害者差別解消法も、対象は個人であって、たとえば、障害者施設や事業所や団体等に対する差別的反応など、差別、いわば“差別感情”そのものを解消させてくれるものではありません。

ですから、個々の地域の実情に応じた条例の制定が必要になります。そして、条例の制定にあたっては、私たち山形の障害者が表に出て行き、社会の皆様との相互理解をはかる必要があるのです。

障害者/健常者が変わるための場所づくり
―新たな政策形成を目指して

私の話に戻ると、大学在籍中に、今言ったような理由から、私は福祉制度の根本をなす行政法を専攻し、在学中に行政書士の資格を取りました。卒業後は、司法書士を目指して勉強を続けましたが、自分が骨折してしまい、母親も脳梗塞で倒れてしまったので、十分な勉強ができなくなってしまいました。

それでも、現在は、公的介護制度と山形における運用に見られるさまざまな問題点を、障害者と健常者の垣根を超えて話し合う場をつくっています。ひとつが、「ストック・アウェアネス(気づきの蓄積)」です。

これは、そもそも、滝口克典さんと松井愛さんが代表を務める「ぷらっとほーむ」さんが2015年4月に企画された「じゅくぎ@ヤマガタ」から始まっています。これは、山形市内8か所で、それぞれにテーマを設けて、それぞれの場所で、集まった人たちがそれについて改めてじっくり話す、という熟議の場づくり企画で、その企画に賛同して、自宅で開いたんです。

plathome.wixsite.com

それをイベントで終わらせるのはもったいないということで、ストック・アウェアネスという会に発展させました。制度や政策というと、少し敷居が高いので、きちんとテーマを決めつつも、気楽に議論ができる場にしたいと思っています。

もうひとつが、「障害のある人ない人と共につくる政策研究会山形」です。この会は、制度・政策志向の会ですが、行政や制度に対する不満を内々でぶつけあって終わるのではなく、しっかり勉強して、根拠理論と形式を整えて、行政に障害や難病等の特性を踏まえた政策提言をしていこうという会です。

小野仁先生が発起人だったのですが、小野先生から、当事者が代表になるべきだ、と言われて、周りの方も賛同してくれたので、代表になっています。第1回目の創立を兼ねた例会が2016年3月に開かれました。

実際のところ、一口に「障害者」といってもさまざまで、横のつながりはごく限られています。障害者と健常者の世界がまるで違うように、障害者や難病者同士の世界もまったく異なります。せめて、障害などの違いがあっても“障害者や難病者同士”では深くつながりたいと思っています。ですから、私が障害者などの代表だという気持ちはまったくありません。

と同時に、障害者の世界にこもることなく、今の社会の中を生き抜く一人の人間として、社会に存在する障害者として、社会全体を学んでいくこと―具体的には、(障害者と通称される方以外の)いわゆる健常者の抱える問題を含む社会全体の様々な諸問題を学ぶこと―が非常に大切であると考えるに至りました。

障害者として、そういった「学びの場に参加すること」によって、他の参加者の皆様に、社会に存在する者としての「障害者」の実情を知ってもらうこともできますし、障害者自身も、健常者や社会全体の問題を学ぶことによって、「相互理解」が促進されるのではないかと感じるようになったのです。

さて誰が、そのような行動を起こすのか。間違いなく感じることは、誰かが出て行かなければ、何も変わらないということです。制度が勝手に変わって、現実も勝手に変わってくれるというものではありません。一段一段、階段を上るしかない―電動車いすでは登れませんが(笑)。

そうした思いで今回、政策研究ネットワーク山形に参加させて頂くことにしました。ご迷惑をおかけすることが多くあるかと思うと心苦しいのですが、それが社会というものだと考えて、いろいろな人が集まり、つながることで、政策を生み出していくことができればと思っています。

(2016年9月18日・インタビューア:伊藤嘉高)

伊藤嘉高事務局長、齋藤直希会員、齋藤郁子会員