政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第9回)滝口克典会員(ぷらっとほーむ共同代表)

第9回会員紹介は、「ぷらっとほーむ」共同代表の滝口克典会員です(2017年2月18日インタビュー)。孤立しがちな若者が自由に集まり、つながり、成長する「居場所」と「学びの場」を幅広く提供するとともに、若者による居場所づくりの中間支援もされています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
たきぐち・かつのり。1973年、山形県東根市生まれ。大学院修士課程修了後、2年間務めた高校教師の職を辞し、2001年に不登校支援NPO「フリースペースSORA」の立ち上げに参画。2003年に、不登校の子どもに限定せず、開かれた「居場所」とリベラルな「学びの場」を提供する若者支援NPO「ぷらっとほーむ」を立ち上げ、松井愛とともに共同代表につく。自身の生計を家庭教師や予備校・大学の非常勤講師で立てながら現在に至る。山形市在住。

異端派への共感

滝口克典会員写真1

生まれは東根市神町です。芥川賞作家の阿部和重の出身地でもあり、彼の作品の舞台にもなっています。神町は、元々何もないところで、戦後に米軍が進駐し、1956年に日本に返還されてから自衛隊の駐屯地になり、そのなかで発展してきた町です。

言わば、根のない人たちが集まってきた町なんですね。子どもの頃の小学校のクラスは、自衛隊関係の人が1/3、農家の子が1/3、商店街の子が1/3といった感じでした。私の父の実家も、元々は天童にあって開拓団として東根に入ってきた。そこから独立して神町に居をかまえたのが私の父です。そんな感じなので、子どもの頃は、自衛隊勤めの親に連れられて外からやってくる転校生が多くて、思い返せば、今の自分の根のなさは、そうした少年時代の影響もあるのかもしれません。

少年時代は本が好きで、「勉強ができるやつ」「運動ができないやつ」のカテゴリーに入っていました。それで、いじめられたり、いじられたりもしましたね。学校という空間では、ちょっとした違いがいじめを生みますからね。その経験は、間違いなく、自分の人生に影響しています。

中学卒業後は、山形市内の山形中央高校に進学しました。ちょうど、県立高校から国公立大学の進学者を増やすという県のプロジェクトが始まった頃の年でした。中央高校のなかでは、最上位に近い成績だったので、選抜組に入れられて、好きにやらせてもらえたので、勉強というよりは、本ばかり読んですごしました。西洋の歴史ものが好きでした。ですから、当時は学校というものに対して人並みの不満はありましたが、学校という空間に違和を感じるようなことはなかったんですよ。

山形大学に進学して、そこでは西洋史を専攻していて、具体的には、中世ヨーロッパのキリスト教異端派に興味を持ちました。当時は、地下鉄サリン事件がおこりオウム真理教へのバッシングが激しかった頃で、末端の信者に至るまでネガティブなまなざしが向けられていました。ところが、私は、むしろ、そうした信者の側に共感を覚えたんです。彼らはもとは社会の中で生きづらさを抱えていた異端的な人びとで、教団はそんな彼らに居場所を提供していた。社会から排除され暴走した人びとを、またもや力づくで排除していく社会。そもそも、なぜ異端は叩かれるのか、という疑問です。

当時は研究者になることも視野に入れて、学部を出てから別の大学の研究室に入ったのですが、私の研究関心が指導教官に理解してもらえず、研究者になりたいならテーマを変えなさいと言われていました。もちろん、研究者になるために研究がしたかったわけではなかったので、そこの研究室にいるのは無理だと思いました。そして、研究は趣味でいいやと考えて、当時新設されたばかりの山形大学人文学部の大学院に入って、自分の研究を修士論文にまとめました。

「底辺校」と「進学校」での高校教師生活

大学院を出てから高校教師になったのですが、それも強い使命感があったからではありません。趣味の世界史を教えながら生計が立てられればという程度の考えでした。1年目の赴任高は、いわゆる「底辺校」と呼ばれるところでした。そして、そこでは、これまでの自分の中での常識―近代の常識―がまったく通用しませんでした。

まず、大学院を出たというだけで、変な目で見られる。私は生徒指導の担当になったのですが、それも理を説くのではなく、力で言うことを聞かせることを求められるものでした。問題行動を起こす生徒が一日に数人はいましたので、そうするしかなかったのかもしれません。先輩の教員からは「休み時間中に教室に顔を出すなよ」と言われていました。必ず、喫煙などの問題が見つかり、指導しきれなくなるからです。

担当した世界史の授業も、とりあえず50分席に座らせておくことができれば何でも良いというものでした。前任者に進捗を聞いたところ、「古代ローマまでやった」という感じでした。ただし、それは「すきま」があったということでもあります。受験対応をしなくて良かったので、映画を見せても良かったし、実習系の授業も多くて、地域に出て野菜を売ったりするなど、いろいろなプログラムが組まれていたので、学校のなかに生徒の居場所がいろんなかたちでつくれたんですね。

この1年ではじめて「もう片方の世界」――非大卒者の世界――を知って、それがきっかけで、社会学にも興味を持つようになり、宮台真司上野千鶴子の「学校化社会」論などを読み始めました。最初から進学校に勤務していたら、社会学に関心を持つこともなく、ずっと高校教師を続けていたかもしれません。

2年目は、うってかわって、いわゆる進学校で教えることになりました。自分自身も進学校出身なのですが、進学校が、いわば「近代を強いられる世界」であることを教師になって初めて思い知ったのです。一人ひとりの生徒の事情を無視して、ただの受験対応マシンに変えていく。まさに規律化の仕組みが貫徹している空間でした。これはこれで当時の自分にはきつい世界で、三日目には辞めようと思いましたよ。ただ、さすがに周りに迷惑がかかるので、1年間、何とかやりすごすことにしたんです。

滝口克典会員写真2

学校という枠を外すフリースクールの可能性

やがて秋になって、塾か予備校の講師にでもなるかと思って仕事探しをしていたところ、目に入ってきたのが、「不登校親の会山形県ネットワーク」に関する新聞記事でした。その記事では、不登校の子どもたち向けのフリースクール山形市内で立ち上げようとしていると紹介されていました。当時の私は、「不登校」という問題に特に強い関心があったわけではなかったのですが、学校に対する違和感を活かせる仕事かもしれないと思ったのです。

そこで、さっそく代表者に連絡して、私も設立準備に参加させてもらうことになりました。ただ、当然のことながら、不登校児の親御さんたちは学校に対して強い不信を抱いていましたから、教員である私は敵なんですね。不登校経験もないので、「何も分かっていないのね」などと言われながらも、自分も教員として不登校になっているから似ているといった理屈をこねくりだし、次第に受け入れてもらえるようになりました。

既存の学校とフリースクールの関係はとても不幸なものです。日本のフリースクール不登校児のためのものなので、よそ者を受け入れる土壌が無く、外に開かれていません。他方で、既存の学校も、学校内の資源だけですべてに対応しようとしています。スクールカウンセラーも、往々にして、不登校児は学校に戻すという発想で動いています。いわば、私はその狭間にいたわけです。当時はその意味がよくはわかっていませんでしたが。

いずれにせよ、フリースクール設立準備の実行委員になって、いろいろあって、2001年(28歳)の4月に「フリースペースSORA」が立ち上がりました。ところが、あまり利用者が集まらなかったのです。事業として継続するには20人くらいは利用者がいなければならなかったのですが、4~6人にとどまっていました(ちなみに私自身の生計は、当時も今も家庭教師や予備校等の非常勤で成り立たせています)。その一方で、ひきこもりやニートが世間で大きな問題になっていて、そうした若者たちがボランティアというかたちで多く集まってくるようになりました。

フリースクールを運営しながら、私たちは、どうやら「不登校」そのものが問題であるというよりも、若者たちの居場所を用意できない社会に根本的な問題があると認識するようになりました。「不登校」といったカテゴリーにこだわるよりも(そうすれば、不登校児という枠で接することにもなってしまいます)、そうしたカテゴリーにこだわらず子どもや若者が安心して身を置き、そして成長と自律を目指す場所を用意する必要があると考えるようになりました。

もちろん、不登校児を対象としたフリースクールが大切であると考えるスタッフもいました。そこで、「SORA」とは別に、2003年5月(30歳)、山形市江南にあった民家を借りて、「ぷらっとほーむ」(ぷらほ)を立ち上げたのです。

plathome.wixsite.com

居場所があってこそ人は自律する―同質性と異質性の同居

だから、最初は、「ここに来たい人なら誰でもどうぞ」というスタンスで、属性は一切問わずに迎え入れるフリースペースとしてスタートしました。いまもそのスタンスは変わっていませんが、当初は、やはり、不登校やひきこもりの子、あるいはその経験者ばかりが集まってきました。

不登校」や「ひきこもり」といったスティグマ受容が嫌で、支援ニーズを持ちながらも支援につながろうとしない若者を呼び込むという点では意味がありました。ただ、先ほども言ったように、同質性だけでは空間がよどんでしまうというのが私の考えです。そこで、居場所づくりとともに、同質性を半分手放す「学びの場づくり」にも取り組みました。この学びの場は、一方的に誰かの話を聞くというものではなく、基本的にはワークショップ形式をとっています。そうすると、外部からも人がやって来ますし、交流が生まれます。

具体的に言うと、まず、学ぶ内容はこちらでは決めず、参加者自身が興味あること、知りたいことを学んでいきます。学ぶ動機がない人に、無理に教えても仕方が無いからです。だから、まずは、好きなことができる「逃げなくても良い」居場所を提供する。すると、いろいろな人と交流するなかで、学ぶ動機が見つかってくる。そうなれば、その学びの動機に応じた新たな場―私たちはそれを「テーマ・コミュニティ」と呼んでいます――を用意します。たとえば、不登校の問題について語り合い冊子にまとめる場を作るとか、映画を自主上映するとかいったように、さまざまなコミュニティが作られています。ウェブサイトを見てもらえば、雑多なコミュニティがいくつも立ち上がっていることが分かると思います。

そこでは、きちんとした役割をもってもらい、いわば、スパルタに近いかたちでトレーニングをしてもらうこともあります。逃げる力も必要ですが、それを言うだけでは、逃げてはいけないときにも逃げてしまうことになってしまうので、逃げずに戦える力も身につけてもらう必要があるからです。ただし、その前提として居場所がなければなりません。

そして、ひとりがひとつのコミュニティに属するわけではなく、異質性を兼ね備えたいくつものコミュニティに属することで、多元的な帰属が生まれていきます。今日の社会では、多くの人が両足をひとつの世界において生活していますが、そのことが自分の生きづらさにつながるとともに、他の人の生きづらさにつながっているのではないでしょうか。そうした生きづらさから脱する上で、「ぷらほ」で実践している同質性と異質性の共存のなかで生きるということが大切であると考えています。

私自身、2006年に東北公益文科大学の大学院に入り直して、社会学を本格的に研究するようになり、外部とつながることの大切さに改めて気づかされました。「ぷらほ」では、このことを「分母を増やす」と呼んで、多くのメンバーがポジティブに語っています。 2013年(40歳)に今の場所(山形市緑町)に移転してから、参加者がさらに増えて、今は、300人くらいの人たちが出入りしています。年代も、小学校の低学年から中学生、20代、30代、40代と幅広く、毎日10~20名程度が集まってきていますね。

喫茶店みたいな場所を想像してもらえば良いのですが、基本的には、1回200円の参加費で好きな時間に来て、好き好きにしゃべって、好きな時間に帰っていくだけなんですよ。そこにさまざまなテーマ・コミュニティがくっついています。テーマ・コミュニティは外部からの人も含めて、だいたい5~10人くらいの場ですね。

他にも、新たな居場所作りとして、子どもの学習支援を行う夜間教室や、子ども食堂なども開催しています。初めて来る人も週に1、2組いますが、そういう方に対しては、スタッフがきちんとついて、趣味などの話題でおしゃべりしながら、自然に既存のメンバーとつなぐ橋渡しをしています。気軽に来て頂ければと思います。

ぷらっとほーむ概観図

新しい民主主義の回し方

この活動を始めたときは、「山形ではうまくいくわけがない」という反応がほとんどでした。まだまだ自己責任の問題だと考える人が多かったのです。ところが、貧困の問題がクローズアップされるようになり、ようやく自己責任の問題として片付けられないことが認識されるようになりました。

大切なことは、こうした活動を大きくすることではなく、細々とでも続けていくことだと思っています。「うまくいくわけがない」という認識が間違っていることを多くの人に知ってもらい、多くの人が、それぞれにNPOや中間集団を作り出し、あるいは、参加するようになってほしいと思います。そうして、いくつもの居場所が重層的にネットワーク化されることで、リベラルな市民文化を創り出していく。ひとつの政策で世の中を変えようとするのではなく、一人ひとりがつながり、ボトムアップで世の中を少しずつ変えていくことが大切だと思っています。

そういう意味でも、NPOや中間集団がどんどん出てくることが大切です。実際、さまざまな支援を行う人たちがさまざまな地域で出てきています。たとえば、フリースクール山形県内で6ないし7か所できています。私は現在、山形新聞の連載「やまがた青春群像」を担当していますが、そこでもそうした活動する若者たちを取り上げています。

ただ、そうした活動に目を向ける際には、気をつけなければならないことがあります。私が連載で取り上げているのは、決まって地味に根強く活動している若者たちです。立ち上げたばかりの活動を過剰に取り上げると、多くの注目を浴びることになり、引っ張りだこになり、そうした自分に酔ってしまいがちです。しかし、一時の注目が去ったあとの活動は、なかなか以前のように注目はされません。すると、そのギャップから、だんだんとやる気を失ってしまい、活動が持続しない。そんなケースをたくさん目にしてきました。一方で、地味で目立たない活動にはなかなか光が当たらず、支持の拡大に苦労している。ミスマッチが生じているのだと思います。したがって、新たなつながりを生み出していく目立たない活動にこそ、メディアの注目や政策的・制度的支援が必要なのだと思います。

私のような人間が制度や政策を語り始めると、「あなたも政治に関わりたい人なのね」という反応によく遭遇します。政治家になろう、みたいな考えはまったくありません。ただし、「政治に関わる」という点では指摘は間違っていないかもしれない。私がやろうとしているのは、かちっとした政策提言や制度設計ではありません。そうした制度設計を担っているのは行政ですが、それゆえに、行政が実験的に何かやろうとすることが難しくなっています。だから、私たちのような存在が行政の外部で実験を行い―行政もそうした実験を支援してくれるようになっています―、うまくいったことを行政に提案して、それを行政に採用してもらうというサイクルを回すことが必要だと思います。選挙とは異なる民主主義の回し方です。

そもそも制度には目的があるわけです。したがって、目的外利用は認められにくい。しかし、制度ではうまく回収できない事態―つまりは非常事態―には、制度外の存在が力を発揮します。わかりやすさが何かと求められる時代ですが、わけのわからないことがおきるのが非常事態。そういう意味で、「ぷらほ」も私自身も、できる限り、わけのわからないままでありたいと考えています。

(2017年2月18日インタビュー、場所・ぷらっとほーむ、聞き手・伊藤嘉高) 

滝口克典会員&伊藤嘉高会員写真

特別企画「市役所職員とともに考える山形市の政策課題」&研究成果報告(6月4日)のお知らせ

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を2016年度の研究テーマとして、議論を重ね、さまざまな論点を浮き上がらせてきました。

そこで、2017年度は、そうした論点を「実際の市の施策、政策と具体的に接続させる」べく、まずは、特別企画「市役所職員とともに考える山形市の政策課題」を開催することになりました。

日時は6月4日(日)13時30分から、会場は山形大学小白川キャンパス人文社会科学部(旧人文学部)1号館です。どなたでも無料で参加可能です。今年度の活動のキックオフとなる会ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

なお、本会では、毎回、多種多様な方にご参加いただいているため、可能な限りの発言機会を設け、有益な議論が行えるよう、ワールドカフェ方式を採用しています。具体的には、小グループに分かれて、席替えも行いながらディスカッションを行います。

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日時と場所

次第

総会

  • 13時30分~40分 活動報告、会計報告、その他

研究成果報告&特別企画「市役所職員とともに考える山形市の政策課題」

  • 13時40分~13時45分 自己紹介タイム
  • 13時45分~14時 第1部 研究成果報告
  • 14時~15時   第2部 講演
    •  14時~14時30分 山形市企画調整課:山形市のまちづくり政策の課題
    •  14時30分~15時 山形市都市計画課:山形市の都市計画の課題
  • 15時~16時   第3部 討議(ワールドカフェ形式)
  • 16時~16時30分 まとめ(今年度の活動方針)

www.facebook.com

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会(3月25日)のご報告

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を2016年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。3月25日(土)に、第4回勉強会が開催されました。ワールドカフェの方法を取り入れ、4会員からの報告をもとに、小グループに分かれて、席替えも行いながらディスカッションを行いました。

現在、全4回の発表と議論を踏まえた発表会&討論会を企画・準備しています。まずは、第4回のまとめをお届けします。

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第1セッション~子育て・若者支援の政策課題を考える

第1セッションでは、子育て・若者支援の政策課題に焦点を当てた報告がなされました。

まず、山本泰弘会員からは、ひとり親家庭をはじめとする経済的に困難な家庭に対し、幼児教育&保護者教育の機会を提供する「まちなかクラス」の創出が提案されました。その背景には、子どもの将来の能力開発に大きな影響を与える幼児教育へアクセスできる子とできない子とが家庭の経済力によって峻別され、いわゆる「格差の再生産」が進行するという現実があります。したがって、格差解消のためには、幼児教育に対する支援が必要であるというわけです。

次に、滝口克典会員からは、ぷらっとほーむでの実践に基づき、「若者支援をめぐる山形県の政策について」報告がなされました。「引きこもり」や「ニート」の問題の根幹には、「居場所の問題」があるとの知見に基づき、必要なのは、数値として成果も目に見えやすい就労支援、登校支援などではなく、若者の多様性を受け入れる「居場所作り」であると指摘されました。その上で、それを可能にするのは「支援といわない支援」を行うNPOであり、県からも年度単位で補助金による活動支援がなされている現状について、報告がありました。

ワールドカフェによる会員間での議論の結果、いずれの報告にも共通するのは、生活課題に対する制度的対応はもちろん必要ですが、そうした対応は、スティグマの問題、細切れの問題、硬直性の問題も生み出すために、それだけでは限界があることなどが指摘されました。むしろ、人びとの生活全体をともに支えあうことができるような「つながり・ネットワーク・コミュニティ」の創出こそが求められており、こうしたつながりの創出に向けた地味な支援(人材育成、空き家利用による交流拠点の提供など)こそが行政に求められている、との指摘もなされました。

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第2セッション~山形市の「発展」の政策課題を考える

第2セッションでは、山形市の発展計画に関する政策課題に焦点を当てた報告がなされました。

まず、齋藤直希会員からは、重度障害当事者として、一市民としての現実=日常生活を踏まえた「山形市発展計画の検証を行っていただきました。まず、「子育てしやすい環境の整備」、「教育環境の整備」については、現状の計画が、「子供が常に健康で、それ相応に安全に過ごせる『居場所』が存在した場合」に偏っており、医療面、教育面など、「本当に困ったときの支援」こそが必要であり、子育て世代の現状にもっと目を向けた政策(障害児童生徒に対応した教育環境の整備、放課後の整備など)が求められると指摘されました。

さらに、「「高齢者がいきいきと暮らせるまちづくり」については、介護保険制度の財源問題も視野に入れて、「地域で支援し合う」ためには、事務作業の簡略化などの工夫が必要との指摘がなされました。

続いて、伊藤嘉高会員からは、山形市が進める「市街化調整区域規制緩和の意義と課題」について報告がなされました。まず、4月3日の公示による指定範囲を見るまで最終判断はできないが、今回の山形市規制緩和は、抑制的なものであり、その点は評価できると指摘されました。というのも、実際に、山形市内に居住を望みながら叶わない子育て世代が見られるため、ある程度の人口転入は見込めるからです。また、周辺市町村との人口の奪い合いになるだけではないかとの指摘も考えられますが、広域で考えれば、山形市外に広がっていく宅地を、山形市内にコンパクトにまとめるという見方もできるわけです。周辺市町の老朽化した公共施設をすべて更新できないことを考えれば、なおさらです。

ただし、他方でさまざまな課題も指摘されました。まず、市街地の空洞化をさらに進めてしまうのではないか? 市街地における空き家の数はきちんと把握できているのか? 人口30万人ビジョンの実現に向けて、今回の規制緩和はどの程度、寄与するのか、シミュレーションはなされているのか? という疑問です。規制緩和も困難な作業ですが、緩和したものを再規制するのはさらに困難です。人口30万人ビジョンの軌道修正が必要になった場合、引き返しが可能になるような、段階的な規制緩和が必要であるとの指摘がなされました。

その上で、合理的な規制緩和に向けて4点の政策提案がなされました(詳細は割愛)。他会員からも、空き家の原因を見極めた対策を優先させるべきとの声も挙がりました(しかし、4月3日の公示では、条件に該当する区域がすべて規制緩和の対象になりました)。

ワールドカフェの議論では、いずれにせよ、数値目標のビジョンの前に、住民とともに「山形での魅力的なライフスタイル」あるいは、(こぼれ落ちた人、こぼれ落ちそうな人への視点を併せ持った)「山形での生活の豊かさ」(ゆとりあるスローライフ)を提示した上で、さまざまな支援策にせよ、都市計画にせよ、さまざまな政策が形成されるべきとの声が多く挙がりました。

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会員紹介(第8回)村中秀郎会員(NPO法人まちづくり山形代表)

第8回会員紹介は、NPO法人まちづくり山形代表の村中秀郎会員です(2017年2月8日インタビュー)。都市計画コンサルタントとして、全国の都市計画事業に携わった経験から、住民と行政の協働が実際には機能していない現状を変えるべく、まちづくりNPOを立ち上げ、両者の橋渡し役などとして活動されています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
むらなか・ひでお。1949年山口県生まれ。大学卒業後、知人の都市計画コンサルタント事務所に参加。全国の都市計画事業などに携わり、会社代表も務める。2001年から(財)山形県都市整備協会、2007年にNPO法人まちづくり山形を設立し代表に就任。現在に至る。山形市在住(東京との2地域居住)。

学生運動を経て、都市計画事務所へ

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生まれは山口県で、サラリーマンの家庭でした。 父親は大手電機メーカーに勤めていたので、転勤の連続。当時は単身赴任するという考えもなかったから、転勤のたびに一家6人で引っ越して、当然学校も変わりました。歌詞ではないですが神戸、大阪、名古屋、東京と移り住んできました。

父親にとっては出世街道だったのでしょうが、私にとって“ふるさと”らしきものを持つことはできなかった。だが、引っ越すたびにあたらしい出会いや発見などもあり、子供心にワクワクしていたように思います。

1か所に落ち着かなかったせいではないと思いますが、私自身、どうも社会を斜めに見るところがあって、大学生の頃がちょうど70年安保だったから、学生運動にぶちあたり波乱づくしの学生時代でした。

よく卒業できたと思うのですが、五体無事で大学を卒業して、知人の軽い誘いでちょうど立ち上がった都市計画事務所に入所しました。知人とは学生時代にお世話になった先輩で、学生運動の合間にちょっとしたビジネス(仲間と下請け)をしていた時に仕事を回してもらっていた。生活費とか活動資金とか、色んな意味で助かった。

都市計画コンサルタント会社の光と影

事務所といっても結社みたいなものです。 飲み屋で気の合った人を明日から採用するといった具合に、自由な会社で、社員の裁量も大きくて、ある意味何でもありだったような気がします。

当時の仕事スタイルは、午前様までコツコツと、それから飲み歩き極端に言えば朝登校する学生の姿を見て我に返る、仕事をしているのか遊んでいるのか、よくわからないそんな感じだった。 だが、ちょっと言わせてもらえば、ただ飲んだくれていたわけではない、多くは先輩たちと都市づくりについて議論する、それがいい経験だった。その先輩たちが都市計画の第一線にいたから、いろんな勉強をさせていただきました。

その当時、都市計画を仕事にする事務所は少なくて、東京を拠点に、地方の仕事を中心に、地方に行くたびに支社を作って、長期間滞在するというかたちをとっていました。 場所もそうなんですが、むしろ人なんでしょう、人が好きなんです、がんばっている人を見ると近づいてしまう。そんなことから居座る結果になる。

私の場合は、沖縄や四国などでの仕事が長く、山形でも山形新幹線(1992年開業)関連の事業で4年ほど通いつめました。 行く先々すべてをリセットして取り組む、出会いや発見も含めて何が起きるか、何ができるかって、そのワクワク感は子供頃に感じたワクワク感に通じるものが、その気持ちは半端ではなかったように思います。

新天地に行ったら先ずは夜の探検、何軒もはしごする、名士といわれる人たちが夜な夜なざわつく店にたどりつくまで色々と情報を集めながら、出会えた時はハッピー、そこで色んな話を聞く、ここで思い入れが注入されるというわけです。 そんなこんなで、まちづくり、多くの人に助けられ、教えられ、まがりなりにも自分らしくできたのではないかと思っています。

20代の頃は、多くのことを地方の役所の人たちに教えてもらいました。 地方の地方に行くほど、良くしてくれました。本当に公僕だったような、給料いらないよってわけだから自分というものを持っている、本当に上下の関係なく仕事の完成に突っ走る仲間という意識で仕事していたように記憶している。 本当にすごい人が多かった。ラッキーだったと思います。

そんなスタイルで仕事をしているこの事務所、自由人が集まっていたからおもしろい実験的なこともした。しょせんアルバイト集団のようなもので背負っているものが少ない、だがらできたのかもしれません。 社内入札制度をとっていたのです。しかも、事業ごとの独立採算で、給与もその枠のなかから自分で自由に決めてよかった。大げさに言えば仕事も給与も自分次第というわけです。だから、給与が半年くらいゼロの時期もありましたが、まったく気になりませんでした。

時間に追われる仕事もありましたが、意外と自由だった。今でいうネット炎上するような出来事が毎日起こる。それも反省なのですが、仕事面でも反省することは多いです。 区画整理の仕事をしていた時、全国津々浦々どこにいっても同じような街をつくってしまった。今思えばどうかしていた。

早々に区画整理から足を洗い、住民と一緒になって取り組む地区計画のまちづくりに移行しましたが、気が付くのが遅かったようで、もう後の祭りです。今考えると、50年、100年耐えられるまちづくり、その責任は重たいと思っています。

この仕事は、人とのコミュニケーションが大事、無理があるかもしれないが、というわけで酒を飲むのも仕事だったように思います。権利者とぶつかった時などに、お酒は本当に潤滑油になった。 朝の4時に「この若造が!」とたたき起こされることがありましたが、それでも、一緒に酒を飲むようになり、向き合って話ができるようになると、こちらの立場も理解してくれるんです。それで、お互いに折り合い”を付けられるようになるわけです。答えの一つを見つけるのにお酒は役に立ちました。ただ、帰してくれない、徹底的に飲もう、自然とお酒が強くなりました。

こうしてお酒とともになし遂げてきた仕事について、仕事巡礼というか、どうなっているのか見に行く、会いに行きます。言わば“折り合い”が本当に良かったのか、間違っていなかったのか、自己満足かもしれないが確認しに行くわけです。 人に会うとあの頃は……と感謝されるが、むしろア~だ、コ~だと言われたい、それが普通だしそれが明日への活力になる、贅沢だけど。 ボーと眺めて、その時の判断はそれで良かったのか、自分に問いかける、“答え”はないのだけど、そんな繰り返しです。 

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山形の地に根ざして、市民と行政をつなぐまちづくりNPOの立ち上げ

東京と行き来する生活だったのですが、どういうわけか山形県都市整備協会に声をかけられました。2001年(52歳)のことです。またまた、あまいささやきに酔いしれて山形に居座ることに。

協会に勤めてからは、山形の様々なまちづくりにかかわらせていただきました。ところが、山形での暮らしがホテルからアパートへと山形に重点を置き始めたころ、協会が解散することとなりました。東京に戻ろうかと悩みましたが、地元の文化や生活に、もっと向き合いたいという思いを強くいだいていたことや、都市計画における市民と行政の協働を進めたいという強い思いがあったので、有志とNPOを立ち上げることにしました。なぜか、これまでのところとは違ってその思いが強かった。

それが、「NPO法人まちづくり山形」です。 NPOの活動は、多岐にわたっていますが、すべての活動の根幹には、「都市計画を市民の手に 市民力の育成」というテーマがあります。 発足当時は夢もあったのでがんばりました。

2年にわたって、マンション居住者への意向調査を行い、街なか居住に関するワークショップを定期的に開催しました。その結果、街なかでは、住まいが暮らしと結びついていない現状が分かりました。両者をつなぐためには、用途地域など都市計画上の設定だけではうまくいかず、やはり、市民活動やコミュニティが必要で、そのための仕組みや仕掛け、場づくりなどの具体案を提言しました。 その当時の提言はコミュニティに視点を置いて、地域で考え判断するというもので、間違っていなかったと思っています。

また、空き家、空き地、そして老朽マンションの問題にも触れました。 継続した取り組みとして、街路事業に伴うまちづくりの支援を行っています。 山形市の栄町大通りや薬師町通り、寒河江市流鏑馬通りなどのまちづくり活動について、住民が立ち上げた検討組織を支援するかたちで、行政とのコーディネートなどを行っています。他にも、各地のまちづくり活動を地元NPOなどと連携しながら活動支援を行っています。

活動を始めたころから思っていたことがあります。 今住んでいる山形市なんですが、良く東京などで山形の話をすると鶴岡、酒田、金山町の名前は出るのですが山形市は一向に出ない。今、「違うよ、山形市は変わるよ」と発信するチャンスと思っています。

山形市には文化を感じないというのが共通の理由なのですが、どうやら行政がやってきた仕事に大きく関係しているようです。 だが、今がチャンス、若い市長になった、変わるチャンス、変われるチャンスと思っています。 佐藤市長がもっと大胆に動けるように、応援する動きがもっとあってよいと思っています。

行政の方と一緒にまちづくりにかかわって40年以上、仕事上どうしても行政の方のスタンスなどを見てしまう。そのスタンスによっていいまちづくりができるからです。 今少し感じているのが、行政の方に……はじめから収まるところに収めようとしてしまう傾向が見られることです。そのほうが楽だし、批判もされず、あとから問題にもならないから。

確かに、私も自分のしてきたことを振り返ると反省ばかりです。けれども、私の経験では、「いいものをつくろう」という思いで集まり、ひとつひとつ積み上げていけば、たいていはいいところに収まるものです。それをマニュアルで何とかしようとする。「違うでしょ」、「どこにでもあるものを作りたいのですか」と言いたい。思い込みもあるのでこれまた厄介です。

だけれども、一番怖いのは、「大変な思いはしたくない」となっていることです。 一人ひとりの職員は優秀でやる気もあるはずなのに、どうして組織になると停滞してしまうのか。その根本にあるものを変えなければならないと、やはり一人ひとりがもっと行動と発言ができるような文化を創っていくしかなさそうです。 そうなると、とても数年で変わるものではないと思うが、もう一度言います。今がチャンス、山形市が大きく変わるには今から仕掛けることが必要です。

若者からまちづくりの文化を変える

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私が期待しているのが若者です。 これからの人口縮小、都市縮小の時代に、力任せのやりかたでは絶対に上手くいきません。 若者たちに、自分の意見を主張するという姿勢をもってもらいたいと考えて、「若者の地域づくり交流の場づくり」という活動をしています。

具体的には、まちづくりを実践する仕事人から話を聞き、議論をするという場をつくっています。進行係は山形大学生と東北芸術工科大学生の二人にすべてを任せることで、毎回、熱心な議論をやっています。

大学でもさまざまなかたちで地域づくりの調査や実践がなされるようになっていますが、単一の大学のカリキュラムにとどまらず、もっと継続的な深みのある交流や連携を生み出していくことが必要であると考えて、やれることをやっています。

そもそも、中山間地に行けば大歓迎してくれますが、市部ではなかなか若者を受け入れてくれません。今、芸工大生によるリノベーションの活動がきっかけで変わろうとしていますね。

何はともあれ、若者には、「あれはダメ」の壁を崩していけるだけの力と、それを支えるネットワークが必要ですし、大人たちの理解と協力が不可欠。若者にやさしい、可能性を引き出せるまちになってほしい。それが山形市の大きな魅力の一つになると思っています。 その手伝いをすることが、長く生きてきた私の最後の仕事の一つと思っています。

(2017年2月8日インタビュー、聞き手・伊藤嘉高) 20170208195906

「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会(3月25日)のお知らせ

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。 第4回勉強会を3月25日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

なお、多くの方にご参加いただいているため、さらに多くの方に多く発言頂き、有益な議論が行えるように工夫します。具体的には、ワールドカフェ方式を採用して、小グループに分かれて、席替えも行いながらディスカッションを行いたいと考えています。

第4回勉強会のお知らせ

山形市を中心とした山形県自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第4回勉強会を3月25日(土)に開催します。

前回に引き続き、各会員から「これまでの議論を踏まえた上で、山形市の強みを生かした、持続可能性のある人口ビジョンと総合戦略」について、それぞれに関心あるテーマのデータと実情、提言をお示ししただき、最終的な提案をまとめていくことになりました。

これまでの議論を踏まえると、おそらく、最終的な提案では、個別の論点の詳細にまで立ち入ることはできず、人口ビジョンと総合戦略の問題点と課題を提示し、それに対応するいくつかの政策パッケージを示すことになり、次年度に、そのなかから具体的なテーマを設定し、詳細な調査と議論を行う形になるのではないかと考えております。

議論の時間が限られていますので、ご自身の知見をご発表頂ける会員から、事前にペーパーをご提出頂き、それを事務局でテーマごとに整理し、各会員にも事前に目を通して頂いた上で、勉強会当日はテーマ別セッションを設け、自由なディスカッションを行いたいと思います。

そこで、ご発表頂ける会員は、タイトルを付したA4ペーパー(枚数や様式は問いません)を3月22日(水)までにメーリングリストにお流しいただくか、事務局までお送りください。facebookユーザーの方は、下記ページでも受け付けています。一人でも多くの方のご発表とご参加をお待ちしています。

第1セッション「子育て・若者支援の政策課題を考える」

1. 山本泰弘 会員
 「幼児教育支援施策『まちなかクラス』」
2. 滝口克典 会員
 「若者支援をめぐる山形県の政策について」

第2セッション「山形市の『発展』の政策課題を考える」

1. 齋藤直希 会員
 「現実生活から感じる『山形市発展計画(抜粋)』の問題提起」(仮)
2. 伊藤嘉高 会員
 「市街化調整区域規制緩和の意義と課題」

 

第3回勉強会まとめ

第3回勉強会も、前回からさらに4名の方が新たにご参加くださり、4会員からの報告をもとに、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。

seisakunet.hateblo.jp

第1テーブルでは、モビリティ(移動)に焦点をあてた報告がなされました。

まず、貞包英之会員からは、ご自身の調査に基づき、山形市生まれ&市外移住の経験のない者は、全市民の27.4%にすぎず、多くが移住経験を有していることが指摘されました。他方で、マクロな傾向として地域間移動の減少し、近距離間の移動の重要性が高まっていることが指摘されるなかで、県内他市町村から山形市に移住する動機が薄れており(近隣市町村に住んだ方が地価は安いし、不便でもない)、山形市単体で人口ビジョンを考えることの限界が指摘されました。

続いて、山本泰弘会員からは、移住の妨げとなるミクロなモビリティの問題を解決することも求められるとして、家と車をセットで貸し出す事業が提案されました。定住のためには自動車が不可欠だが、県民にとって、自動車を運転する生活は当たり前だが、移住希望者には、心理的、経済的負担が大きく、埋め合わせる施策が必要というわけです。

この事業構想に対しては、マクロな人口移動の動態そのものを変えるだけのインパクトのある施策が必要という意見とともに、ミクロな施策を積み上げることが重要との指摘もなされました。また、こうしたモビリティに関する施策は、とりわけ学生に対して有効なのではないかといった意見が出されました。

実際、多くの学生は車を所有しておらず、車のない不便な生活のイメージしかもてないために、卒業後、山形から離れてしまうという可能性が考えられます。したがって、家とセットとまではいかなくとも、学生がレンタカーを借りる際に、学校と行政、レンタカー会社が負担し合って、学生に低額で貸し出せるような仕組みを作ることで、学生に山形の魅力を感じてもらえるようになると考えられるからです。

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第2テーブルでは、さらに事業起こしにも焦点を当てた報告がなされました

まず、石川敬義会員からは、山形県労働生産性の低さが指摘される一方で、中小企業でも必ずしも労働生産性が低くなるわけではなく、地域資源を活かした独自産業こそ、労働生産性が高くなると指摘されました。つまり、従来産業の誘致や支援では、労働生産性に限界があり、魅力ある仕事を生み出せないため、独自産業を生み出すインキュベーションに対してこそ行政の支援を行うべきというわけです。

続いて、伊藤嘉高会員からは、まず、石川会員の問題提起を引き継ぎ、現下の地方創生では、いたずらな都市間競争を呼び、地方を疲弊させるばかりであり、持続的&自立的な経済圏の発想が求められることが指摘されました。とはいえ、そうした発想は、往々にして既存産業の温存につながり、新陳代謝が進まないという問題があります。

そこで、行政は、たとえば、中心市街地に対しては、新陳代謝の仕組みを作り出す「まちづくりNPO」等に対して補助金を出すようにスキームを改め、民間主導の市街地活性化を促すべきとの指摘がなされました。モビリティの高まりを考えれば、莫大な税金をつぎ込み、行政主導で中心市街地を再活性化させる必要性、必然性がないからです。

そもそも、モビリティの向上と、情報インフラの進展により、人びとの生活にかかわるすべての物事を一点に集中させる意味がなくなりつつあります。農業を解体し人びとを都市に集中させてきた論理そのものが反転しようとするなか、人間の生活空間を農業の空間に再配分させていく動きを育てていくべきとの意見もありました。

東京への人口集中の問題を、地方レベルでの人口集中によって解決できるわけがありません。東京を縮小再生産しただけの都市に何の魅力があるのでしょうか。そこで、中心と周辺(あるいは文化と自然)という従来型の空間の割り当てによる都市計画ではなく、田園型・分散型の「ゆとりとつながりのある」生活空間を実現する新たな土地利用規制&緩和を検討すべきとされました。

具体的には、スプロール化の愚を繰り返さないためにも、中心市街地以外でも、町内会等の地域団体をまとめる「まちづくりNPO」を地区単位で育成し、当該NPOに対して補助金を一括交付し、コミセンなどを核に、地区計画の策定や、地域経営、コミュニティビジネスを行う環境を整備すべきとの提案がなされました(さらに、当NPO職員から市職員に登用する仕組みも用意することで、地域をつなぐ能力を有し、熱意のある優秀な若者に地域で活躍してもらうとともに、そうした公務員を養成することにもつながるというわけです)。

さらに、地域包括ケアが機能していない現状を踏まえ、まちづくりNPOが小規模多機能型施設と連携して、地域包括ケアを実現させるという案も出ました。さらには、ケアマネの独立性が確保されていない日本では地域包括ケアは無理との指摘もなされました。(現下の法的枠組みのもとで)そうしたケアマネの問題に対応するためにも、事業者を超えた「地域ケア会議」(和光市などの先進的なケース)をまちづくりNPOと連携して開催するといった仕組みも考えられます。

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「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」第3回勉強会(1月28日)のお知らせ

政策研究ネットワーク山形では、「山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略の検証」を今年度の研究テーマとして、現場レベルの声に耳を傾けながら、検証を行い、政治・行政関係者を中心に提言を行います。

第3回勉強会を1月28日(土)に開催することになりましたので、お知らせします。会場は、山形大学小白川キャンパスです。どなたでも参加可能ですので、ご関心のある方は、ぜひともご参加ください。

第3回勉強会のお知らせ+発表者募集

第3回勉強会を1月28日(土)13時30分から開催します。

第2回勉強会で挙がった下記のデータと論点に基づき、山形県・山形市の総合戦略(発展計画)と人口ビジョンを踏まえ、各会員から「山形市の強みを生かした、持続可能性のある人口ビジョンと総合戦略」について、それぞれに関心あるテーマのデータと実情、提言をお示ししただき、さらに議論を深めたいと思います。

議論の時間が限られていますので、ご自身の知見をご発表頂ける会員から、事前にペーパーをご提出頂き、それを事務局でテーマごとに整理し、各会員にも事前に目を通して頂いた上で、勉強会当日はテーマ別セッションを設け、自由なディスカッションを行いたいと思います。

そこで、ご発表頂ける会員は、タイトルを付したA4ペーパー(枚数は問いません)を1月21日までにメーリングリストにお流しいただくか、事務局までお送りください。一人でも多くの方のご発表をお待ちしています。

※ご出席頂ける方は、1月26日(木)までに、メーリングリストや電子メール等で事務局までご連絡ください(facebookアカウントをお持ちの方は、Facebookページでも参加申し込みを受け付けています)。 会員以外の方もご参加頂けます。よろしくお願い申し上げます。

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第2回勉強会のまとめ

第2回勉強会は、前回からさらに4名の方が新たにご参加くださり、3会員からの報告をもとに、それぞれの視点から活発な議論が交わされました。

seisakunet.hateblo.jp

第一報告「国における地方創生の現状」

第一報告(梅津庸成会員)では、まず、政府としての軸が、地方創生から一億総活躍社会に移行しており、個別の人口ビジョンに対する関心はほとんどないことが明らかにされました。その上で、今日の都市間競争の時代においては、山形市の客観的な「強み」を明示した上で、適切な人口ビジョンを設定すべきであるとの問題提起がなされました。

他方で、複数の会員からは、人口ビジョンはひとつの姿勢を示したものに過ぎず、具体的な数値にこだわるのではなく、その姿勢を大切にすべきであるとの指摘もなされました。また、過大な人口ビジョンでは、本来達成できるはずの筋道も見えなくなり、マイナスの影響を及ぼすとの指摘もなされました。

第二報告「山形における社会的移動の現実から人口30万人ビジョン実現の課題を考える」

第二報告(伊藤嘉高会員)では、山形市の社会的移動は、流入超が続いてきたが、徐々に減少し、2014年には流出超に転じ、2015年はさらに拡大している現状に対して、その背景についての分析がなされました。

たとえば、県外への転出の拡大、県外からの転入減が続いており、子育て世代を中心に転出超が拡大していました。とりわけ、子育て世代は、村山圏内での転出超は改善しているが、県外からの転入が大きく減り、全体で転出超に転じていました。また、20代は、宮城への転出超に変化は見られない一方で、関東への転出超が拡大していました。仙山連携は、対仙台の関係よりも、(山形+仙台の)対関東との関係を変えるものでなければ、効果は限られているとの示唆が得られました。

さらに、県内他市町村では、県外からの子育て世代は転入超にあることを踏まえると、土地利用規制緩和によって、宅地面積を増やせば、「ある程度」、山形市に転入させることは可能であるが、効果は限定的であり、持続性もないことが分かりました。その意味でも、山形の強みを生かした産業振興が伴わなければ人口増は困難であるとの指摘がなされました。

第三報告「農業と貧困から見る山形のこれから」

第三報告(草苅裕介会員)では、人口ボーナスによる経済成長の終焉とともに、日本国全体の人口減少、高齢化のなかで、従来型の産業振興が無効になっている指摘がなされました。その上で、山形が生き残るために、農業に焦点を当てて、1.ポーランドのバル・ムレチュニィをベースにした安価な食堂の設置、2.各農家等で作られる自家消費野菜や中央市場や丸勘等で食べれるが破棄される商品等を集荷し安価に移動販売する、3.農地を社会的共通資本とし公的組織が主体となった農業を行い職と食を生み出すことが提案されました。

いずれにせよ、成長を前提とした経済ではなく、持続可能な贈与経済を実現させ、ローカルな自立経済循環の仕組みをつくることが必要であり、「共有地の悲劇」を超えるためにコモンズ(入会)型の仕組みを作ることが必要との論点が打ち出されました。

論点のまとめ

以上の報告とともに各会員から指摘された主な論点を事務局でまとめたところ、以下の通りになりました。

  1. 山形市に宅地だけ増やしても人口(とりわけ子育て世代)が増える時代は終わった。
  2. 政府は、地方へ人口を還流させるマクロ政策をとりそうにない。
  3. 山形市のような地方の県庁所在都市も人口流出の時代に入っている。
  4. 宅地を増やして人口が増えるとしても村山地域の他市町村から奪う形になり、効果は限定的で、持続性もない。
  5. もちろん、人口減少の背景にある個々人の生活問題に取り組む政策を打ち出し、人口減少に対応する必要はある。
  6. そこで、他の地方都市に対する山形市の優位性を見いだし、それにしたがった産業振興とともに、実現可能な人口ビジョンを打ち出すことが求められる。
  7. ほぼ唯一の優位性は、仙台市政令指定都市)との隣接であり、仙山連携は理に適っているかもしれない(富谷町、広島の府中町などの例がある)。
  8. しかし、仙台との隣接が30万人を実現するほどのポテンシャル(とりわけ対関東に対する山形+仙台のポテンシャル)を有しているかは検討が必要。
  9. 優位性が見いだせなければ、他県から人口を呼び寄せるような産業振興は容易でなく、ローカルな自立経済循環の仕組みをつくることが必要である。
  10. たとえば、コモンズの仕組みの実現に向けて、従来の産業構造を転換することが求められる。そして、その転換を実現するためには、さまざまなかたちで、個々人のつながりを深める取り組みが必要である。

会員紹介(第7回)池田昭会員(元山形警察署長、元八幡町助役、山形産業資源調査研究所所長)

第7回会員紹介は、山形産業資源調査研究所所長の池田昭会員です(2016年10月30日インタビュー)。警察官や助役としての経験を踏まえ、土地利用規制が既存産業の保護による地域経済停滞につながっており、地域経済再生(地方創生による人口増)のためにも、自治体首長による土地利用規制の緩和・解除を訴えておられます。

本会は、現在、山形市を中心とした山形県内自治体の人口ビジョンと総合戦略について批判的検証を進めていますが、池田会員は、上記の観点から、山形市人口30万人ビジョンに賛同されるとともに、人口40万人減を当然視した県の計画の見直しを訴えています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
いけだ・あきら。1927年2月酒田市生まれ。1945年から山形県警察警察官となり、運転免許課長、米沢警察署長、交通部長、鶴岡警察署長、警備部長、山形警察署長などを歴任。その後、1983年から1986年まで八幡町助役を務めた後、行政書士二級建築士の資格を取得し、行政書士事務所を開設するとともに、有限会社イケダホーム代表取締役に就き、現在に至る。また、山形産業資源調査研究所所長として、県内各地の経済振興策を提起している。

竹槍訓練に参加しなかった少年時代

池田昭会員(1)

生まれは、鳥海山山麓の日向村。今でいうと、酒田市と合併した八幡町だ。農家の三男坊でね。小学校の成績は上位で、四年生からは級長を務めていたんだけど、当時の竹槍訓練などは、馬鹿らしくてな。理由をつけて休んでいたのよ。当時から合理的にものごとを考えるところがあったんだな。

青年学校に進んでからもトップの成績でね。農家を継ぐ必要もなかったから、進学を希望していた。お金はなかったけれども、校長推薦で中島飛行機がお金を出してくれる話になっていたのよ。

ところが、長男と次男が徴兵されてしまって、家の手伝いをしなければならなくなってね。しかも、1年の約束だったのに、当時の大火で家が焼けてしまい、その再建の借財を返さなくてはならなくなった。結局、4年かかってしまったのよ。

19歳になって、ようやく解放されて、当時、募集のあった少年警察官になったというわけだ。

拳銃自殺未遂事件を起こした暴虐署長

新任時代

警察の組織は、軍隊と違って、上官の命令が絶対というわけではなかった。入職は終戦後だったので、白は白、黒は黒と言える時代になったのもあるな。ただ、戦地帰りの上司のなかには、軍隊の文化が染みついた者もいたよ。でも、10人中8人はまともだったな。

24歳の時に、小国地区警察署に警備主任として着任した。庁舎には町警察も同居していたんだけど、その町警察署長の警部がとんでもない男でね。自分の処遇が不満で、毎日、署長室に部下を呼びつけ、立たせたまま、延々とののしり続ける部下いじめが日課になっていたのよ。

ある夜、当直勤務で火鉢を囲んで仲間と雑談していたところ、町警察の巡査が外から帰ってきて、署長に電話をかけているわけ。すると、盛んに電話の前で、すみません、すみませんと頭をさげていた。またかとおもい、電話が終わったところで、あまり気にしないようにと声をかけたのだけど。夜明けに官舎前で抗議の自殺をはかってしまった。

一か月ほど入院して回復はしたが、拳銃使用が規律違反であるとして処分されることになってね。公安委員と署長からなる懲戒審査会が開かれたんだ。私は、元気のよい若手町署員と語らって、事件の原因が署長のいじめであることを知らしめるために、その署員に弁護人として出席してもらったのよ。警察の懲戒審査委員会に弁護人が出るなどというのは、前代未聞だったな。

公安委員も驚いて、審査は紛糾した。けれども、結局、「理由はどうであれ拳銃を使用した責任は懲戒免職以外にない」ということになった。でも、それでは、退職金がもらえないわけだ。そこで、今度は、町長と相談し、町から相当額の見舞金を出してもらうことにした。最後に、私の家で送別会をして、家内の手料理で、励まし、ふるさとの鶴岡に送ったのよ。

時代遅れの検事総長通達を変更
―規則にとらわれてはならない

28歳の時、山形署交通主任(警部補)の時の話になるけれど、当時は、モータリゼーションが進んで、仕事量が膨れ上がっていた。ところが、交通違反事件の送致書類が旧態依然の複雑過ぎたもので、大きな支障をきたしていた。そこで、5枚くらいの一件書類を一枚に集約し簡素化した様式を考案して、山形地検の岡崎次席検事に持ち込んだんだ。

送致書類様式は最高検検事総長制定にかかわるものだから、改正は困難で、改正を上申しても、決まるまでは2年かかると言われていた。ところが、岡崎次席検事は「試験的実施」として、この様式の事件送致を受け入れると決断してくれたのよ。これが、全国に広まり、2年後に検事総長制定改正様式の原型にもなった。

規則はもちろん重要だ。でも、時代の変化に応じて、改めるべきは改めていかなければならない。これは、今日の土地利用規制についても同じだぞ。「法律で決まっているから」で停止してしまっては、何も前に進まない。

他にもな、当時は、運転免許試験受験者が上山の試験場に殺到していた。ところが、学科試験を受けるための教材が500頁ほどの道路交通法という法令集以外に無かったわけ。だから、学科試験が難関だった。そこで試験に出そうな問題とその答えを80ページにまとめた「自動車運転免許受験者合格の手引き。問答式道路交通法、試験場コース図解入り」を編集し、印刷実費の一冊20円で、交通安全協会から発売した。

これが爆発的に売れてな。受験者はもちろん、自動車のセールスマンも、まとめて100冊200冊と購入し、車を売るときに「これ一冊で学科試験は大丈夫」と活用したんだ。短期間のうちに何万部も発行し、これこそ時代のニーズに迅速に適応した取り組みであるとマスコミにも絶賛されたのよ。この本は、後の交通教本に活かされているよ。

第一次安保闘争で検挙者ゼロ人―規則には例外がある

警備課長時代

1960年(33歳)、警察大学校を卒業しての新任地が山形警察署警備課長だった。警備部というのは、情報機関だから、全県の政治行政の動きが入ってくる。表に出たものとしては、複数の県内市長の汚職事件、某社の社長交代劇なんかもあった。とんでもない話ばかりだぞ。

とはいえ、一番思い出深いのは、第一次安保闘争への対応だな。着任早々、毎日のように500人から3,000人規模のデモがくりかえされていてな。ただ、当時の私は、「この反対闘争は一過性のものであり、前途有為の学生たちを、検挙して、職業革命家の道に追いやってはいけない」と考えていた。

だから、闘争をできるだけ合法的におこなわせることが肝要であると考えた。つまり、公安条例による届出を確実におこなわせることだ。そこで、学生の指導者と私が直接接触して、必ず届出を行うこと、不法な暴力行動を慎むことを説得することにした。学生たちは、はじめは反抗的な態度をとっていたけれど、次第にこっちの気持ちも理解して、素直に説得をうけいれるようになってな。

山形の学生運動

ところが、公安条例ではデモの届け出は72時間前に行う事と定められていた。学生たちも熱が入り、「明日、デモをするぞ」となることもあるわけだ。それでは、届出が間に合わない。そんな時には、その情報を私がキャッチすると、学生のところまで行って、届け出を出させたんだ。当時の原田署長が、自分の責任で受理すると言ってくれて、公安委員会も理解してくれた。結果、年間百数十回に及ぶデモで、無届はひとつもなかった。

周辺の他県では、無届デモが相次いで、渦巻きデモで警察官との衝突が頻発し、大勢の学生が検挙されて、退学処分になっていた。検挙逮捕退学者ゼロの記録は全国的にも例が少なく、人に優しい警察運営として、生涯最高の思い出だな。

自動車学校指導員資格試験への対策
―厳しすぎる行政規則は誰のためか

次に、1970年(43歳)の運転免許課長になったときの話をしよう。モータリゼーションもいっそう進んでいて、自動車学校で指導員が足りなくなって、悲鳴をあげていたのよ。指導員の資格認定は警察の仕事で、厳しい試験を行っていた。合格率は10%に満たなかった。

もっと指導員を増やして欲しいという社会の強い期待と要請があったにもかかわらず、それに背をむけて、落として楽しんでいるに等しい態度をとり続けていたんだ。その結果、汚職事件も発生する。そういうことなの。

そこで、私は、免許課長就任と同時に、改善に取り組んだ。指導員資格受験者を免許センターに集めて一週間の研修を行い、十分実力をつけさせてから、最後に試験を行うことにしたのよ。その結果、合格率が70%を超えて、これを数回繰り返して全県の指導員を80人から160人に倍増させた。その結果、運転者も大量養成することができたわけだ。

また、当時は、運転者再教育用の実地訓練施設の土地もなかった。そこで、立谷川の河川敷を利用しようと考えたんだ。県の河川課長に赴き、申し入れたところ、課長は法令集を取り出し「規定では、河川敷を活用できる事項に自動車の運転練習はないので、利用できない」というわけよ。

ところが、規定をちらりと見ると「原則として」と書いてある。すかさず「例外があってもよいのではないか。この規定が施行された頃は車社会でなかったが、情勢が変化している。また、立谷川は山形県民の河である、管理を建設省に任せているに過ぎない。したがって、県民の多くが幸せになるための利用を、建設省が拒むはずがないのではないか」と訴えた。

さすが、東大工学部出身の若い河川課長は、すぐに共鳴して、それでは建設省と折衝しましょうと協力を約して、てきぱきと手続きを進めて、最後に私を上京させて建設省幹部との協議に持ち込み、了解を得ることができた。

山形警察署長時代

他にも、鶴岡署長時代の交通安全協会長の協会私物化の是正、山形署長時代の公開捜査の原則化による検挙率80%の達成、花火大会に際しての駐車禁止規定の解除、蔵王街道の深夜除雪など、さまざまな取り組みを行ってきた。

要は、社会情勢の変化に対応して、公正性を保った上で、柔軟な対策を打つことが大切だということだ。今も、あらゆる面で同様の不合理な事案が山積している。「規則だからだめ」というのは怠け者の逃げ口上だ。現実の身近な矛盾に目を開き、勇気を持って大胆に改善しなければならんのよ。

土地利用規制の問題に直面する―八幡町助役として

退官後は、生まれ故郷の八幡町助役に転じることになった。前町長が八幡町立病院長とともに、町を私物化しているとの批判があってな。そこで、当時の助役が町長選に立候補し、当選したんだ。ところが、町議会は前町長派の議員が多数を占めているものだから、新しい助役が決まらなかった。そこで、どちらの派閥にも属さない、私に声がかかったということなの。

しかし、助役に就いてみると、規則主義による思考停止という警察官時代とまったく同じ問題に直面した。「何を馬鹿なことをやっているんだ」という毎日だった。

たとえば、一条小学校の建て替え時期でね。その校舎建設の予定地が土地改良補助を受けた土地だから8年間転用できないと県関係職員が言うわけ。7か月も抵抗するもんだから、教育長が手をやいていた。

そこで、法令集を取り寄せ検討してみたら、実際は農政局長通達で、民間で転用した場合は補助金を返還させるというだけのものだった。つまり、町の事業に転用するなら、補助金は返還しなくともよく、転用も禁じられていないのよ。そこで、県農林水産部長まで持ち込んで一挙に解決したんだけれども、庄内支庁と県農林関係職員は誰もその通達を見ていまかった。とんでもない怠慢だった。

それでよ、助役に就任するときには、鳥海山の観光開発を任せると言われていたんだ。鳥海山東側は冬の季節風の関係で無風の豪雪地帯だ。しかも広大な斜面があるので、スキーをやるにはもってこいの土地だった。他にもゴルフもできるし、ホテルの土地もあるしで、スポーツ産業の国際的メッカにもなれると考えて、具体的な計画を立てた。

西武でも東武でも、やってくれるところであればどこでもよいから、始めに地元資本とつながりのある東武資本を誘致しようとしたが断られた。蔵王とのパイの奪い合いになると考えたんだ。そこで、西武と交渉したところ、西武鉄道堤義明氏と直接会うことができて、全面協力を約束してくれたんだ。しかも、スキー場のほか、ホテル、ゴルフ場、奥山林道の改修も、西武で資金を出してくれるという好条件でな。当時、第三セクターで事業をおこして、失敗して、今は、借金まみれになっている自治体があるけれど、そんなのとは違う、有望な計画だった。

ところが、当初は、県の許可があれば、翌年にも着工できるという計画だったのに、県の自然保護課が、延々と計画の変更、変更を繰り返し命じたんだ。そのあげく、13年目に「やめろ、やめないとただでおかないぞ」と環境部長が、町長と担当室長を恫喝して、町長も態度を豹変させてな。計画が全面撤回になってしまった。

表向きの反対は環境保護ということだけれども、裏では観光資本をめぐる政治的な争いがあって、政治家が暗躍していた。板垣知事の次に就任した高橋知事は許可する方向で動いてくれていたけれど、最後に力尽きてしまった。

実際、環境保護の象徴とされたのがイヌワシだけれども、私が助役当時は、鳥海山全体で拾つがい二十羽生息していたのに、結局、何もせずに放置しているものだから、山が荒れ、ウサギや山鳥がいなくなり、イヌワシどうしで殺し合い、一つがい二羽のみになっているよ。

西川町の大井沢でも似たような話があって、その計画はまだあきらめていないけれども、それはともかく、私は一期で助役を辞することになった。というのも、町長は、年間、会議出張で百三十八回も出かけておきながら、その内容については一回も伝達なく、要は、物見遊山をしていた。戒めても聞き入られず、次期の町長選への協力を拒否して、助役を退任したというわけだ。

ただ、それで余生を過ごすという発想にはならなかった。『60歳からの生き方』という本がベストセラーになっていて、それに影響を受けた。警察官時代には「定年後に雇ってもらおう」などと媚態をさらした生き方をしてこなかったから、自営を考えた。それで、行政書士宅建二級建築士の資格を取って、行政書士事務所を立ち上げて、イケダホームの取締役にもついて、農園も経営することにした。その傍らで、土地利用規制をめぐる問題も提起しているのよ。

土地利用規制による既存産業の保護と衰退

ここで、土地利用規制について、改めて話しておこうか。山形県には、平坦な土地(可住地)が35万ヘクタール(10億坪)あるけれども、うち85%が農業振興(農振)地域に指定されており、農業以外の土地利用が規制されている。

それがすべて農業に使われていればまだしも、実際には、平坦な山林原野などが16万ヘクタールあり、農地についても、耕作放棄地・休耕地など、使われていない土地が4万ヘクタールもある。つまり、合計20万ヘクタールが、平坦な土地ながら、ほったらかしにされている。実際に、宅地や企業が立地しているのは、可住地のわずか8%にすぎない。それでいて、「山形には土地がない、土地が高い」といっている。

どうして、これだけの土地が農振に指定されているのか。農振法が制定されたのは1966年だけれど、食糧自給率の維持のために、将来的な土地改良事業予定地を確保するために、農振指定がなされたのよ。当時の農林省からは、「将来、ブルドーザーでならして農地に使えそうな土地はすべて農振に指定せよ」との指導があり、平坦な山林原野も含めていっきに農振指定された。

そして、この土地改良事業差配が政治家の利権になった。山形でも、かつて、ある政治家が農業団体役員として総会に出るだけで多額の報酬を得ていて、しかも、会員を水増しして補助金数千万円を詐取していたことが内部告発され、政府の要職を失うということがあっただろう。実は、同様の事件が県内他の団体にもあり、県はその対応に苦慮したんだ。

けれども、農振法制定から40年が経過し、水田の構造改善事業などの土地改良事業がほぼ終わり、米の生産力は高まり、逆に、今や米余りで、開田も全面禁止になっている。ところが、過大な農振地域指定はそのままだ。しかも、山形では、ほとんどが、最も規制の厳しい一種指定になっている。

その結果、平坦な土地で空いているのに、宅地開発も行えず、事業用地としても利用できず、農家もまた、六次産業化で食品工場を建てたいと思っても認めらないという事態になっている。都市計画における市街化調整区域についても同じことが言える。実際の例をいくつか紹介すると、こんな具合だ。

  • 農業協同組合が支援して、山形市上山市に、農家の直売店舗を出させようとしたが、許可がおりず、断念。
  • 県庁周辺に商業地域がない。
  • 上山市藤吾温泉では、地元農家が集まり、温泉を掘り当てたにもかかわらず、19年間、その利用が許可されず。
  • 天童市の音響メーカーが本社の隣地に工場の建築を計画したが許可されず。
  • 山形市の身障者の団体が会員所有の農地の提供を受けて自力で作業所を建設しようとしたが許可されず。
  • 庄内町で、最上川沿いの耕作放棄地に風力発電機を造りたいとの企業があるのに農振地域を理由に許可されず。
  • 百目鬼温泉、保養センターの許可に5年、塩製造工場許可まで3年かかった。
  • 自治会館に間借りしていた健康保険組合連合会が、独自の事務所建設を企画したが、山形市に用地が確保できず、寒河江市に移転。

さらに言えば、こうした厳しい規制が、新たな政治家への賄賂を誘発している。つまり、選挙にからめて、ことさらにもったいつけたり、「口利き」の見返りを求めるなどといったことだ。実際、多くの疑獄事件が、この土地利用に関する許可をめぐって発生している。逆に、既存産業の保護のために、政治家が働きかけて、新たな土地利用を許可しないということも起きている―心ある自治体職員が、このことを教えてくれている―。上の事例のなかにも、そうしたものがある。

土地利用規制は首長の権限で解除できる

池田昭会員(2)

しかし、実際のところ、首長の権限で、経済情勢の変更に応じた農振解除や変更はいつでもできるのよ。第七条に「経済事情の変動その他情勢の推移により必要が生じたときは遅滞なくその指定した農業振興地域の区域を変更し又はその指定を解除する」と規定されている。その上で、民間の事業を受け入れることにすれば良いだけのことだ。

実際、天童市では、芳賀地区70ヘクタールの農振を解除して、そのかなりの部分を準工業地域に指定し、企業を誘導し、職住近接の複合都市街を造り、多くの雇用を確保している。上山市長も、反対を押し切って、みはらしの丘準工業地域に大型商業施設の立地を認め、用途指定を近隣商業地域に変更している。山形市でも、新市長が誕生し、人口30万人ビジョンを掲げ、土地利用規制の見直しを明言している。

役人のなかには、「先頭走って躓くな。びりでは目立ち過ぎる。びりから二番目、三番目のところをトコトコ走ってゆくのが、役人のいちばん上手な生き方である」などと吹聴する者がいる。山形県も、土地利用規制問題について何も知らない人口問題研究所の推計を鵜呑みにして、人口112万人が、将来79万人になるという総合戦略なるものを発表している。

ところが、この計画に県首脳も、代議士、県議、マスコミも、なんの批判も反応もしない。呆れて言うべき言葉なしだ。県民所得が東京の約半分なのに、そんな県の職員にはその何倍もの給与報酬を税金で払っているのだから、バカらしくなってしまう。もちろん、「農振はおっかなくて手を出せない」と本音を打ち明けてくれる「心ある」役人もいる。だから、あとは、新たな山形市長のように、勇気を持つことだ。

もちろん、いたずらに農振を解除して、民間に任せれば、乱開発を招くだけだという批判はあるだろう。しかし、都市計画区域内では、準工業地域に指定するとともに地区計画を策定することで、乱開発を防ぐなど、手法はいくらでもある。規制があるから何もやらないというのが、一番の悪だ。

コンパクトシティの意味をはき違えて、何百億円もかけて市街地再開発をやっているが、それで誰が得をしているのか? 詳しくは、私のホームページを見てほしい。宅建協会五十周年記念論文優秀賞を受賞した私の論文など、農振解除による具体的な産業振興を提案している。

政策研究ネットワーク山形に求めること
―自己満足で終わらない政策研究が必要

山形にもいろいろな研究会があるけれども、すぐれた成果を上げているところはないな。体制批判を避けて、枝葉末節ばかり議論しているからだ。勉強にはなるけれども、社会の変革にはつながらない。問題の核心をついた政策研究が必要だ。それがなければ、自己満足で終わってしまう。

県民の最大の関心事は、地方の人口減少、産業衰退の問題だろう。どうして、人口が減っていくのか。これまでに話したように、不合理な土地利用規制により、既存産業が保護され、新たな産業が生まれず、その既存産業が衰退し、働く場が減っているからだ。

だから、この問題点を認識した民間マインドを持った人材にもっと広く参画してもらうことが必要だ。そのうえで、実践的な研究を行うこと、さらには、そうした研究によって社会にどのような貢献がなされたのかという事後検証も必要だろう。大いに期待しているよ。

(2016年10月30日インタビュー:聴き手&構成:伊藤嘉高)

池田昭会員&伊藤嘉高会員