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政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第5回)諏訪洋子会員(義姫の会代表、前山形市議会議員)

第5回会員紹介は、「義姫の会」代表で前山形市議会議員の諏訪洋子会員です(2016年3月19日インタビュー)。山形市議会議員として、補助金行政や公務員制度などに対する問題点を追及するなど、既成政党とは一線を画した活動を行い、現在は、「義姫の会」代表として、義姫再評価による観光の振興を目指しておられます。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が集まって成り立っています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

諏訪洋子会員プロフィール
すわ・ようこ。1963年横浜市生まれ。8歳で上山市に移り住み、上山北中、山形中央高、尚絅女学院短大(英文科)を経て山形新聞社入社。95年に退社後、県スポーツ振興21世紀協会、自営業などを経て2011年5月~2015年4月山形市議。2015年7月、市民グループ「義姫の会」を設立。山形市在住。

就職活動の経験を糧に
―「レモンをもらったら、レモネードにする」

諏訪洋子会員1

生まれは横浜市で、近くに米軍の住宅地(本牧ベース)がありました。そこはフェンスで囲まれていましたが、外国人が身近にいる生活でした。ハロウィンの際には、お菓子をビニール袋いっぱいにもらってうれしかったことを覚えています。

8歳で親の仕事の関係で上山市に移り住んだのですが、外国人はもちろんいないし、冬は寒いしと、カルチャーショックを受けました。でも、子どもだったからか、すぐに慣れることができ、かえって山形が大好きになりました。

上山北中、山形中央高、仙台市の尚絅女子短大(英文科)と進み、就職活動をしたわけですが、そこで初めてつまずきを経験しました。希望する企業に応募して順調にいっていたのですが、自分の些細な手違いでふいにしてしまったんです。その結果、周りが新社会人の生活を謳歌し始めたなかで、就職浪人をすることになりました。

今思えば縁がなかったと考えることもできますが、その当時は初めてのつまずきに唖然。しかし、その時のくやしさから立ち上がるためにメンタル強化の本を読むなど、タフさを身につけることができたと思っています。

たとえば、アメリカの諺で「レモンをもらったら、レモネードにする」という言葉があります。日本流に言えば「梅をもらったら梅干しにする」とでも言えるでしょうか。どんなことも、自分次第で価値のあることに変えることができる、だから、何があっても大丈夫、無駄なことなど一つもないと考えられるようになりました。

私にとって、この就職活動が初めてのレモンだったわけです。そして、初めてのレモネードにもなりました。

山形新聞社で女性活躍の道を開く

就職浪人を経て、山形新聞に入社したのですが、当時のマスメディアは外からのイメージとは異なり、とても保守的でした。男女雇用機会均等法が成立した頃だったのですが、男女差別はまだまだ根強く、女性は結婚したら退職するのが当たり前でした。

ところが、ある日、私が所属していた広告セクションに、先見の明がある上司が放送局から赴任してきました。「これからは女性を顧客にしなければならない時代だ」というのです。当時は、女性用の広告なんて皆無に近く、せいぜい化粧品の広告ぐらいでしたね。下着の広告なんてとんでもないという時代だったんです。

それで、世の人口の半分を占める女性を相手にするには、こちらも女性でなければならないといって、社内の女性を抜擢したチームが作られました。フットワークが軽かった私は、営業担当に抜擢されて、社内初の「アドウーマン」になりました。

もちろん、当時社内に女性の広告営業は前例がありませんでしたので、先輩の男性にサポートしてもらい試行錯誤の日々でした。大変ありがたかったです。やがて『ANNE』という女性向けタブロイド誌を発行することになりました。

当時の広告は文字だけのものが主流だったのですが、ビジュアルや感覚に訴える紙面をつくり、それに合った広告をつくりました。たとえば、ケーキであれば、「おいしいケーキ」と文字を打つのではなく、ケーキを美味しそうに食べている女性を載せてキャッチコピーをつけたりといった具合ですね。

寿退社後、「女性ゆめネット」などさまざまな活動に

新聞社での仕事はとても充実したものでしたが、私も例外ではなく、結婚を機に寿退社しました。1995年のことです。もちろん、「なんで女性は辞めないといけないの」という気持ちはありましたね。そんな経験も「レモン」にして、今日で言えば、男女共同参画への関心につなげて「レモネード」にしました。

退社後は、その当時全国的なブームだった、女性起業家と起業を目指す県内の女性40名で「女性ゆめネット」というネットワークを作りました。 その「女性起業者」の一人に政治や社会活動に関心の高い方がいて、いろんな勉強会に誘ってもらい参加しました。

そのうち山形市行財政改革推進委員を拝命し、市民目線での補助金支出の見直し(1億円削減)を経験することができました。残念ながら、その志しの高い友人は亡くなってしまいましたが、その頃にできた「社会」と「自分」との新しい接点が新しい種となり、私の中でしばらく眠っていました。

その後は、山形県スポーツ振興21世紀協会モンテディオ山形のフロント業務、フリーライターとしておいしい山形推進機構の山形の「美味しい食」を取材しながら県内各地を訪れました。たまたま実家に事務所の空スペースができたので、そこにリサイクルショップ「フォーリーブス」を開業しました。談話スペースなども設け、人の集まる場づくりを試みました。

山形市議会議員として
―女性の視点で独自の活動

諏訪洋子会員2

起業をした一方で、40代も後半にきて「自分にやり残していることはないか」と考えるようになりました。そして浮かんできたのが、先ほど述べた「眠った種」です。政治や社会活動への興味は、その後も薄れることなく続いていました。

とりわけ、時代の変化に適応せず「形骸化」したままの政治・行政、意思決定の場に生活者の視点を生かせる女性が少ないことなどに課題を感じていました。そうだ! 意思決定の場、市議会議員に立候補しようと思い立ちました。

とはいえ、私に政治の経験は一切なく、伝手も何もありません。そこで、2010年の参院選を前にして、みんなの党が山形で党員説明会を開くという新聞記事を見つけて、選挙事務所のインターンシップを申込み、事務所の留守番や、街宣に同行させてもらいました。

2011年の市議選の半年前になって、私も立候補を表明したのですが、そのときに、「今さらだけど」と選挙の指南本を渡してくれた人がいました。それを読むと、「半年前までに後援会を立ち上げ」などと書いてあるわけです。もちろん、私にはそんなものはなかったので、急遽、立ち上げました。政治的には素人の先輩、同級生、女性団体や市民活動で知り合った友人などが協力してくれました。震災直後の選挙で、しかも初めての選挙でしたので無我夢中でした。本当に志のみ!よく立候補したな~と思いますね。

それでも、当時の風に乗って、当選させて頂くことができました。当選後は女性の視点と新しいタイプの議員を目指しあえてタブーにも触れていこう、「是々非々」を貫くなら会派拘束のない「無会派」でいこうと4年間を過ごしました。民間の目から見たら不思議でおかしなことがいっぱい、まずは石を投げて波紋を広げることを目指しました。

たとえば、補助金支出の見直しです。山形市の文化事業の補助金支出には、「山形市補助金等の適正化に関する規則」という補助金の事務処理ルールがあるだけで、いくら? 何年? といった具体的な補助ルールはなく、外から見ると不透明。十年以上経っても一度受け取ると、ずっと同じ額が支出され続けている状態でした。

人口減少もあって財政がいっそう厳しくなることが予想され、自立した地域経営が求められるなか、一般市民に明確な説明ができないやり方はもはや通用しませんよね。

他の自治体では徐々に補助金額を減らしていくサンセット方式の導入や、補助率を明確にするなど、最終的には自立してもらう方向へと切換えが進んでいました。地域を活性化するため行政に求められるのは、自立した事業を地域に作り出していくための支援ではないでしょうか。

そう考えて、文化事業の補助金支出のルールを作るよう働きかけました。その結果、ルールのひな形を作成してもらうところまでは行きましたが、「それまでの経緯があるのですべての補助金事業に一律にルールを適用させるのは難しい」とされてしまっています。

みんなの党が掲げていた公務員制度改革も、民間の目から見えれば共感できるところでした。東日本大震災後、国家公務委員の給与が7.8%削減され、地方公務員も倣うべきだとの要請が国から出た際、県内の自治体でいち早く反対したのが山形市でした。もちろん、私はこれに警鐘を鳴らしました。

実はこの国からの要請は地方に支払われる交付金と連動していたのです。つまり、国の言うこときかないと交付金減らすよ、というものでした。地方自治体が自立性を楯に逆らえば、交付金が減らされ市民サービスに影響が出るしくみです。

「これまで当市は独自に給与削減を実施して成果を上げてきたので、国の勝手な要請には応えない」というならば、そのために山形市交付金が減る可能性がありますと市民に説明する必要がありました。しかし、山形市は「自治体の自立性」の一本やりで、ついに市民に影響に関する説明はなく、交付金が減らされてしまいました。

また、山形市では定年後の再就職を公表していません。いわゆる「天下り」について公表するよう訴えましたが、一人の活動には限界がありました。山形市では指定管理者施設の長は公募が原則となっていますが、実際には公募は少なく市役所OBが就いています。そういう実態すら調べなければ分からない。公金が使われている限り透明性の確保はあたりまえです。指定管理者制度のあり方についての採決では、1:34というシーンもありました。諦めやうやむやよりは、議決で意志を示したいと何度か反対討論にも立ちました。

試行錯誤でしたが1期4年の間に、待機児童ゼロ、山形市男女共同参画条例制定、議会基本条例制定などのメイン公約3つは実現することができ充実したものでした。 このように、私なりに既成とは一線を画した活動をしてきたつもりでしたが、みんなの党の解党もあり、無所属で挑んだ2015年の市議選は、多くの方に応援して頂いたものの、当選には一歩及びませんでした。

「義姫の会」設立
―義姫再評価と山形のイメージアップに向けて

諏訪洋子会員3

堅苦しい政治から離れて、改めて自分のやりたい楽しいことはなんだろうと考えたときに思い浮かんだのが、最上義光の妹で伊達政宗の母であった義姫のことでした。私は歴史が好きなんですよ。特にお姫様。義姫の存在はずっと気になっていました。

義姫といえば、最上義光伊達政宗の両軍が現在の上山市の南部で一触即発の危機にあった時、自発的に両陣の間に輿で繰り出し80日間に及び逗留し、血縁者同士の不毛な戦いを止めさせた女性として有名です。今どきの言葉で言うならば戦国時代の「ピースメーカー」です。

一方大河ドラマ独眼竜政宗』で実の息子を毒殺しようとした母親として描かれてしまって、そっちの「奥羽の鬼姫」というイメージが強く世間に定着していますよね。実は、この政宗毒殺未遂事件は曰くがあります。

最上家には改易の歴史があり史料がない、そのエピソードを記した当時の史料は「伊達治家記録」に残されているだけです。しかし、実際には、小田原参陣遅れの言い訳をするための芝居、伊達家存続のために義姫が濡れ衣を着たことが推測される新しい史料・証拠が発見されています。

つまり、義姫は家族を愛しそのために悪者になったままのお姫様です。 義姫を再評価すべきだとの声もたくさん聞かれる様になりました。伊達政宗ファンだという「歴女」はたくさんいて、観光面でも賑わっているけれど、義姫や最上義光ファンではどうでしょうか。そんな状況を変えたいとも思っています。

そのためには、まずは山形の人たちに義姫のことを知ってもらうことが大切です。それで、「義姫の会」を立ち上げて、講演会の開催から始めているのですが、直近の講演会には200名近い方々にご参加頂きました。そうして機運を高めていくことで、義姫再評価を山形市仙台市にも働きかけていきたいと考えています。義姫に対する誤った印象というレモンも、レモネードに変えることができると信じています。

諏訪洋子会員と伊藤嘉高代表

(2016年3月19日、カフェレストラン・アランフェスにて、聴き手・構成:伊藤嘉高)