政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第4回)堀川敬子会員(天童NPO支援サロン設立者・山形県まちづくりサポーター)

第4回会員紹介は、天童NPO支援サロン設立者で現在は山形県まちづくりサポーターの堀川敬子会員です(2015年6月7日インタビュー)。まちづくり系NPOの先駆けとして、行政の補完団体にならないNPO、市民活動の実現に尽力されています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が集まって成り立っています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

堀川敬子会員プロフィール
ほりかわ・けいこ。主婦。山形県まちづくりサポーター。天童市生まれ。東京のIT企業勤務を経て、家業の青果物卸業に従事する傍ら、天童青年会議所の地域づくり事業や、「平成鍋合戦」(天童青年会議所青年部主管)の実施に参画。2001年にNPO法人「天童NPO支援サロン」を設立し、「コミュニティ・ビジネス」の創出及び啓発活動や、「国際ジャズフェスティバル in 天童」「ふるさと山形塾」など各種事業に取り組む。2008年、結婚を機に山形市へ転居、2009年に天童NPO支援サロンを解散、2011年、男児出産。

東京でのIT企業勤務を経て故郷、天童へ

堀川敬子会員(山形県まちづくりサポーター)

実家が青果物の卸業(株式会社ながせ/フルッティア)を営んでいたので、両親は忙しく、お手伝いさんと過ごす時間が多かったですね。だから、親との関係もべたっとしておらず、わたしのやりたいことに口を出すこともありませんでした。NPO立ち上げの際も「やりたくてもできない人がいるのだから」と応援してくれましたし、今日までの人間関係に築き方につながっているように思います。

高校を卒業した後、東京の大学に進学し、バブル景気の真っ只中、ITベンチャー企業に就職しました。でも、故郷への思いはずっと抱いていたんです。山形新幹線も開業し、情報インフラも発達し、東京と山形の距離も近づいていたので、あえて東京にいることもないなと思って、26歳の時に帰郷し、家業を手伝うことにしました。

専用の請求書発行システムをプログラミングしたり、会社のシステムを管理していたエスアールプランニングでも働き、地元の知人が手がけていたコミュニティ雑誌の編集や制作も担当したりしました。

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「天童NPO支援サロン」立ち上げ―「仕方ないからうちがやる」

仕事を通してさまざまな業種や地域の人たちに接するうちに、だんだん市民団体や活動に興味を持つようになったんです。最初は軽い気持ちで天童商工会議所の青年部や青年会議所に顔を出していたんですね。青年会議所では3年間活動して、時間をかけて議論してさまざまな提案が行われましたが、なかなかまちを変えることは難しく、なぜだろうという疑問が生まれるようになりました。

そうしたなか、2000年に県のNPO支援センターの会合に参加した際、大川健嗣先生たちから「これからはNPOの時代だ」という話を聞きました。当時は「NPOって儲かるの」くらいの認識でしたが、NPOは社会に利益を生み出す存在であるということを学んだんです。そこで、一念発起し、2001年に「天童NPO支援サロン」を立ち上げることになりました。

藤工業の工藤さんに代表を務めて頂き、出羽桜酒造の社長さんやふれあい天童の加藤由紀子さんにもメンバーになってもらい、人も集まりました。実家の店のスペースを間借りしたのですが、とはいっても、立ち上げ当時は、どこから手を付けたら良いのか……。飲んで話をするなかでアイデアを出し合いました。天童高原の自然を活かす懇談会を開催したり、天童の国際JAZZフェスティバルに実行委員として参加したりしました。

 2002年10月から村山総合支庁のコミュニティ・ビジネス支援事業を受託してから、地域づくりコーディネーター養成講座(ふるさと山形塾)を開催したり、むらやまコミュニティサロンを開催したり、大川塾を開いたり。そうした活動をするなかで、行政からさまざまに声がかかるようになりました。

当時は、まちづくり系のNPOがほとんどなく、きちんとした結果の出せるところも少なかったので、私のところに意見を聞きに来たり、検討会などの委員になってくれという話が来るようになりました。行政とべったりだったわけではなく、「仕方ないからうちがやる」といったスタンスで、来るもの拒まず、話があれば何でも引き受けました。

まちを変えるには―行政とのほどよい距離感が大切

堀川敬子会員(天童NPO支援サロン)

そうしているうちに、行政のなかも見えてくるようになりました。結局は人なんですよ。もちろん政治も必要なことですが、企画したり立案したりするのは行政の職員なので、担当者がいかにしっかりしているかで、まちが全然違ってくることが分かったのです。とくに、県の「やまがた集中改革プラン」の推進に関する第三者委員のときに、担当職員の方に接して、その思いを強くしました。

だから、社会を変えたいと思ったら、いかに行政の内部のなかで本当に実力のある人に話をもっていけるかどうかが大切なんです。そこで、NPOの取り組みも、そうした人たちをつなぐネットワーク作りとファシリテーションを重視したわけです。

考えてみれば、わたしの活動の原動力も、やっぱり、人との出会い、人とのつながりなんです。2003年から観光農業のプロデューサーとして有名な寒河江の工藤順一さんの秘書のようなことをさせていただいた時期がありました。工藤さんは行政に対して素で思ったことを言うような人なんです。でも、行政の職員も自分の担当にこだわらず熱意があり汗のかける人であれば、そうした人同士の出会いがまちを変えていくきっかけになるんです。

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行政に対峙して批判することも大切ですが、実際に行政を変えていくのは、押したり引いたりする、ほどよい距離感によって作られる関係なんですよ。行政の下請けではないパートナーシップのあるべき姿だと考えています。工藤さんとの出会いによって、そのことを実感させられ、わたしもまた変わっていくことができたのです。

新しいつながりの形成に向けて

心残りもありましたが、結婚して山形に移り住んでから、時間がなくなり、NPOもたたんでしまいました。やはり、土日や夜の活動が多いので、結婚・出産すると、アクティブに動けなくなったんです。

出産したときに思ったことですが、普段生活しているだけだと気づかないことが多くて、周りにも知っている人がいないんですね。昔は、ごちゃごちゃした人間関係のなかで生活していたので、いざというときにもどこかに助けてくれる人がいて、孤立してしまうことはなかった。

だから、最終的には人がつながることがまちづくりであり、安全と安心につながることなんだと思うんです。たとえば、会社員としてのつながりだけでなく、地域の多種多様なコミュニティをつくっていくことが大切です。

いまは子育て真っ最中ですが、家の蔵にはいろいろな人が集まってくるので、そういう場にまだ小さい息子も参加させて、勉強してもらっています。今後は、もっと地域に開かれた子育ての場になっていけばよいと考えています。

もちろん、今でも、チェリアの会などの活動で意見は出し続けています。しゃべれば必ず誰かが耳を傾けてくれます。子育てが一段落すれば、同じような立場にある女性たちも巻き込んで、これまでに培ったネットワークも活かして、新たな人のつながりを作り出していきたいと考えています。

もちろん、気が合わない人と無理して付き合うことはしなくていいと思いますよ。義理と人情がNPOです。一時期でも一生懸命やって付き合っていれば、多少離れても、つながりは保ち続けることができます。ひとつのきっかけを無駄にしなければ、人は変われる。そして、本人が変わると、その周りも大きく変わっていくんです。

堀川敬子会員と伊藤嘉高代表

(2015年6月7日、堀川家の蔵にて、聴き手・構成:伊藤嘉高)