政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第9回)滝口克典会員(ぷらっとほーむ共同代表)

第9回会員紹介は、「ぷらっとほーむ」共同代表の滝口克典会員です(2017年2月18日インタビュー)。孤立しがちな若者が自由に集まり、つながり、成長する「居場所」と「学びの場」を幅広く提供するとともに、若者による居場所づくりの中間支援もされています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
たきぐち・かつのり。1973年、山形県東根市生まれ。大学院修士課程修了後、2年間務めた高校教師の職を辞し、2001年に不登校支援NPO「フリースペースSORA」の立ち上げに参画。2003年に、不登校の子どもに限定せず、開かれた「居場所」とリベラルな「学びの場」を提供する若者支援NPO「ぷらっとほーむ」を立ち上げ、松井愛とともに共同代表につく。自身の生計を家庭教師や予備校・大学の非常勤講師で立てながら現在に至る。山形市在住。

異端派への共感

滝口克典会員写真1

生まれは東根市神町です。芥川賞作家の阿部和重の出身地でもあり、彼の作品の舞台にもなっています。神町は、元々何もないところで、戦後に米軍が進駐し、1956年に日本に返還されてから自衛隊の駐屯地になり、そのなかで発展してきた町です。

言わば、根のない人たちが集まってきた町なんですね。子どもの頃の小学校のクラスは、自衛隊関係の人が1/3、農家の子が1/3、商店街の子が1/3といった感じでした。私の父の実家も、元々は天童にあって開拓団として東根に入ってきた。そこから独立して神町に居をかまえたのが私の父です。そんな感じなので、子どもの頃は、自衛隊勤めの親に連れられて外からやってくる転校生が多くて、思い返せば、今の自分の根のなさは、そうした少年時代の影響もあるのかもしれません。

少年時代は本が好きで、「勉強ができるやつ」「運動ができないやつ」のカテゴリーに入っていました。それで、いじめられたり、いじられたりもしましたね。学校という空間では、ちょっとした違いがいじめを生みますからね。その経験は、間違いなく、自分の人生に影響しています。

中学卒業後は、山形市内の山形中央高校に進学しました。ちょうど、県立高校から国公立大学の進学者を増やすという県のプロジェクトが始まった頃の年でした。中央高校のなかでは、最上位に近い成績だったので、選抜組に入れられて、好きにやらせてもらえたので、勉強というよりは、本ばかり読んですごしました。西洋の歴史ものが好きでした。ですから、当時は学校というものに対して人並みの不満はありましたが、学校という空間に違和を感じるようなことはなかったんですよ。

山形大学に進学して、そこでは西洋史を専攻していて、具体的には、中世ヨーロッパのキリスト教異端派に興味を持ちました。当時は、地下鉄サリン事件がおこりオウム真理教へのバッシングが激しかった頃で、末端の信者に至るまでネガティブなまなざしが向けられていました。ところが、私は、むしろ、そうした信者の側に共感を覚えたんです。彼らはもとは社会の中で生きづらさを抱えていた異端的な人びとで、教団はそんな彼らに居場所を提供していた。社会から排除され暴走した人びとを、またもや力づくで排除していく社会。そもそも、なぜ異端は叩かれるのか、という疑問です。

当時は研究者になることも視野に入れて、学部を出てから別の大学の研究室に入ったのですが、私の研究関心が指導教官に理解してもらえず、研究者になりたいならテーマを変えなさいと言われていました。もちろん、研究者になるために研究がしたかったわけではなかったので、そこの研究室にいるのは無理だと思いました。そして、研究は趣味でいいやと考えて、当時新設されたばかりの山形大学人文学部の大学院に入って、自分の研究を修士論文にまとめました。

「底辺校」と「進学校」での高校教師生活

大学院を出てから高校教師になったのですが、それも強い使命感があったからではありません。趣味の世界史を教えながら生計が立てられればという程度の考えでした。1年目の赴任高は、いわゆる「底辺校」と呼ばれるところでした。そして、そこでは、これまでの自分の中での常識―近代の常識―がまったく通用しませんでした。

まず、大学院を出たというだけで、変な目で見られる。私は生徒指導の担当になったのですが、それも理を説くのではなく、力で言うことを聞かせることを求められるものでした。問題行動を起こす生徒が一日に数人はいましたので、そうするしかなかったのかもしれません。先輩の教員からは「休み時間中に教室に顔を出すなよ」と言われていました。必ず、喫煙などの問題が見つかり、指導しきれなくなるからです。

担当した世界史の授業も、とりあえず50分席に座らせておくことができれば何でも良いというものでした。前任者に進捗を聞いたところ、「古代ローマまでやった」という感じでした。ただし、それは「すきま」があったということでもあります。受験対応をしなくて良かったので、映画を見せても良かったし、実習系の授業も多くて、地域に出て野菜を売ったりするなど、いろいろなプログラムが組まれていたので、学校のなかに生徒の居場所がいろんなかたちでつくれたんですね。

この1年ではじめて「もう片方の世界」――非大卒者の世界――を知って、それがきっかけで、社会学にも興味を持つようになり、宮台真司上野千鶴子の「学校化社会」論などを読み始めました。最初から進学校に勤務していたら、社会学に関心を持つこともなく、ずっと高校教師を続けていたかもしれません。

2年目は、うってかわって、いわゆる進学校で教えることになりました。自分自身も進学校出身なのですが、進学校が、いわば「近代を強いられる世界」であることを教師になって初めて思い知ったのです。一人ひとりの生徒の事情を無視して、ただの受験対応マシンに変えていく。まさに規律化の仕組みが貫徹している空間でした。これはこれで当時の自分にはきつい世界で、三日目には辞めようと思いましたよ。ただ、さすがに周りに迷惑がかかるので、1年間、何とかやりすごすことにしたんです。

滝口克典会員写真2

学校という枠を外すフリースクールの可能性

やがて秋になって、塾か予備校の講師にでもなるかと思って仕事探しをしていたところ、目に入ってきたのが、「不登校親の会山形県ネットワーク」に関する新聞記事でした。その記事では、不登校の子どもたち向けのフリースクール山形市内で立ち上げようとしていると紹介されていました。当時の私は、「不登校」という問題に特に強い関心があったわけではなかったのですが、学校に対する違和感を活かせる仕事かもしれないと思ったのです。

そこで、さっそく代表者に連絡して、私も設立準備に参加させてもらうことになりました。ただ、当然のことながら、不登校児の親御さんたちは学校に対して強い不信を抱いていましたから、教員である私は敵なんですね。不登校経験もないので、「何も分かっていないのね」などと言われながらも、自分も教員として不登校になっているから似ているといった理屈をこねくりだし、次第に受け入れてもらえるようになりました。

既存の学校とフリースクールの関係はとても不幸なものです。日本のフリースクール不登校児のためのものなので、よそ者を受け入れる土壌が無く、外に開かれていません。他方で、既存の学校も、学校内の資源だけですべてに対応しようとしています。スクールカウンセラーも、往々にして、不登校児は学校に戻すという発想で動いています。いわば、私はその狭間にいたわけです。当時はその意味がよくはわかっていませんでしたが。

いずれにせよ、フリースクール設立準備の実行委員になって、いろいろあって、2001年(28歳)の4月に「フリースペースSORA」が立ち上がりました。ところが、あまり利用者が集まらなかったのです。事業として継続するには20人くらいは利用者がいなければならなかったのですが、4~6人にとどまっていました(ちなみに私自身の生計は、当時も今も家庭教師や予備校等の非常勤で成り立たせています)。その一方で、ひきこもりやニートが世間で大きな問題になっていて、そうした若者たちがボランティアというかたちで多く集まってくるようになりました。

フリースクールを運営しながら、私たちは、どうやら「不登校」そのものが問題であるというよりも、若者たちの居場所を用意できない社会に根本的な問題があると認識するようになりました。「不登校」といったカテゴリーにこだわるよりも(そうすれば、不登校児という枠で接することにもなってしまいます)、そうしたカテゴリーにこだわらず子どもや若者が安心して身を置き、そして成長と自律を目指す場所を用意する必要があると考えるようになりました。

もちろん、不登校児を対象としたフリースクールが大切であると考えるスタッフもいました。そこで、「SORA」とは別に、2003年5月(30歳)、山形市江南にあった民家を借りて、「ぷらっとほーむ」(ぷらほ)を立ち上げたのです。

plathome.wixsite.com

居場所があってこそ人は自律する―同質性と異質性の同居

だから、最初は、「ここに来たい人なら誰でもどうぞ」というスタンスで、属性は一切問わずに迎え入れるフリースペースとしてスタートしました。いまもそのスタンスは変わっていませんが、当初は、やはり、不登校やひきこもりの子、あるいはその経験者ばかりが集まってきました。

不登校」や「ひきこもり」といったスティグマ受容が嫌で、支援ニーズを持ちながらも支援につながろうとしない若者を呼び込むという点では意味がありました。ただ、先ほども言ったように、同質性だけでは空間がよどんでしまうというのが私の考えです。そこで、居場所づくりとともに、同質性を半分手放す「学びの場づくり」にも取り組みました。この学びの場は、一方的に誰かの話を聞くというものではなく、基本的にはワークショップ形式をとっています。そうすると、外部からも人がやって来ますし、交流が生まれます。

具体的に言うと、まず、学ぶ内容はこちらでは決めず、参加者自身が興味あること、知りたいことを学んでいきます。学ぶ動機がない人に、無理に教えても仕方が無いからです。だから、まずは、好きなことができる「逃げなくても良い」居場所を提供する。すると、いろいろな人と交流するなかで、学ぶ動機が見つかってくる。そうなれば、その学びの動機に応じた新たな場―私たちはそれを「テーマ・コミュニティ」と呼んでいます――を用意します。たとえば、不登校の問題について語り合い冊子にまとめる場を作るとか、映画を自主上映するとかいったように、さまざまなコミュニティが作られています。ウェブサイトを見てもらえば、雑多なコミュニティがいくつも立ち上がっていることが分かると思います。

そこでは、きちんとした役割をもってもらい、いわば、スパルタに近いかたちでトレーニングをしてもらうこともあります。逃げる力も必要ですが、それを言うだけでは、逃げてはいけないときにも逃げてしまうことになってしまうので、逃げずに戦える力も身につけてもらう必要があるからです。ただし、その前提として居場所がなければなりません。

そして、ひとりがひとつのコミュニティに属するわけではなく、異質性を兼ね備えたいくつものコミュニティに属することで、多元的な帰属が生まれていきます。今日の社会では、多くの人が両足をひとつの世界において生活していますが、そのことが自分の生きづらさにつながるとともに、他の人の生きづらさにつながっているのではないでしょうか。そうした生きづらさから脱する上で、「ぷらほ」で実践している同質性と異質性の共存のなかで生きるということが大切であると考えています。

私自身、2006年に東北公益文科大学の大学院に入り直して、社会学を本格的に研究するようになり、外部とつながることの大切さに改めて気づかされました。「ぷらほ」では、このことを「分母を増やす」と呼んで、多くのメンバーがポジティブに語っています。 2013年(40歳)に今の場所(山形市緑町)に移転してから、参加者がさらに増えて、今は、300人くらいの人たちが出入りしています。年代も、小学校の低学年から中学生、20代、30代、40代と幅広く、毎日10~20名程度が集まってきていますね。

喫茶店みたいな場所を想像してもらえば良いのですが、基本的には、1回200円の参加費で好きな時間に来て、好き好きにしゃべって、好きな時間に帰っていくだけなんですよ。そこにさまざまなテーマ・コミュニティがくっついています。テーマ・コミュニティは外部からの人も含めて、だいたい5~10人くらいの場ですね。

他にも、新たな居場所作りとして、子どもの学習支援を行う夜間教室や、子ども食堂なども開催しています。初めて来る人も週に1、2組いますが、そういう方に対しては、スタッフがきちんとついて、趣味などの話題でおしゃべりしながら、自然に既存のメンバーとつなぐ橋渡しをしています。気軽に来て頂ければと思います。

新しい民主主義の回し方

この活動を始めたときは、「山形ではうまくいくわけがない」という反応がほとんどでした。まだまだ自己責任の問題だと考える人が多かったのです。ところが、貧困の問題がクローズアップされるようになり、ようやく自己責任の問題として片付けられないことが認識されるようになりました。

大切なことは、こうした活動を大きくすることではなく、細々とでも続けていくことだと思っています。「うまくいくわけがない」という認識が間違っていることを多くの人に知ってもらい、多くの人が、それぞれにNPOや中間集団を作り出し、あるいは、参加するようになってほしいと思います。そうして、いくつもの居場所が重層的にネットワーク化されることで、リベラルな市民文化を創り出していく。ひとつの政策で世の中を変えようとするのではなく、一人ひとりがつながり、ボトムアップで世の中を少しずつ変えていくことが大切だと思っています。

そういう意味でも、NPOや中間集団がどんどん出てくることが大切です。実際、さまざまな支援を行う人たちがさまざまな地域で出てきています。たとえば、フリースクール山形県内で6ないし7か所できています。私は現在、山形新聞の連載「やまがた青春群像」を担当していますが、そこでもそうした活動する若者たちを取り上げています。

ただ、そうした活動に目を向ける際には、気をつけなければならないことがあります。私が連載で取り上げているのは、決まって地味に根強く活動している若者たちです。立ち上げたばかりの活動を過剰に取り上げると、多くの注目を浴びることになり、引っ張りだこになり、そうした自分に酔ってしまいがちです。しかし、一時の注目が去ったあとの活動は、なかなか以前のように注目はされません。すると、そのギャップから、だんだんとやる気を失ってしまい、活動が持続しない。そんなケースをたくさん目にしてきました。一方で、地味で目立たない活動にはなかなか光が当たらず、支持の拡大に苦労している。ミスマッチが生じているのだと思います。したがって、新たなつながりを生み出していく目立たない活動にこそ、メディアの注目や政策的・制度的支援が必要なのだと思います。

私のような人間が制度や政策を語り始めると、「あなたも政治に関わりたい人なのね」という反応によく遭遇します。政治家になろう、みたいな考えはまったくありません。ただし、「政治に関わる」という点では指摘は間違っていないかもしれない。私がやろうとしているのは、かちっとした政策提言や制度設計ではありません。そうした制度設計を担っているのは行政ですが、それゆえに、行政が実験的に何かやろうとすることが難しくなっています。だから、私たちのような存在が行政の外部で実験を行い―行政もそうした実験を支援してくれるようになっています―、うまくいったことを行政に提案して、それを行政に採用してもらうというサイクルを回すことが必要だと思います。選挙とは異なる民主主義の回し方です。

そもそも制度には目的があるわけです。したがって、目的外利用は認められにくい。しかし、制度ではうまく回収できない事態―つまりは非常事態―には、制度外の存在が力を発揮します。わかりやすさが何かと求められる時代ですが、わけのわからないことがおきるのが非常事態。そういう意味で、「ぷらほ」も私自身も、できる限り、わけのわからないままでありたいと考えています。

(2017年2月18日インタビュー、聞き手・伊藤嘉高) 

滝口克典会員&伊藤嘉高会員写真