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政策研究ネットワーク山形(ブログ版)

組織の垣根や立場の違いを乗り越え、山形の人と知をつなぐ

会員紹介(第8回)村中秀郎会員(NPO法人まちづくり山形代表)

第8回会員紹介は、NPO法人まちづくり山形代表の村中秀郎会員です(2017年2月8日インタビュー)。都市計画コンサルタントとして、全国の都市計画事業に携わった経験から、住民と行政の協働が実際には機能していない現状を変えるべく、まちづくりNPOを立ち上げ、両者の橋渡し役などとして活動されています。

なお、本会はさまざまな立場や考え方をもった方々が自由に集まることで、人と知のネットワークの拡大と深化を目指しています。したがって、各会員のインタビュー記事は、必ずしも本会の見解を代表するものではありません。

~プロフィール~
むらなか・ひでお。1949年山口県生まれ。大学卒業後、知人の都市計画コンサルタント事務所に参加。全国の都市計画事業などに携わり、会社代表も務める。2001年から(財)山形県都市整備協会、2007年にNPO法人まちづくり山形を設立し代表に就任。現在に至る。山形市在住(東京との2地域居住)。

学生運動を経て、都市計画事務所へ

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生まれは山口県で、サラリーマンの家庭でした。 父親は大手電機メーカーに勤めていたので、転勤の連続。当時は単身赴任するという考えもなかったから、転勤のたびに一家6人で引っ越して、当然学校も変わりました。歌詞ではないですが神戸、大阪、名古屋、東京と移り住んできました。

父親にとっては出世街道だったのでしょうが、私にとって“ふるさと”らしきものを持つことはできなかった。だが、引っ越すたびにあたらしい出会いや発見などもあり、子供心にワクワクしていたように思います。

1か所に落ち着かなかったせいではないと思いますが、私自身、どうも社会を斜めに見るところがあって、大学生の頃がちょうど70年安保だったから、学生運動にぶちあたり波乱づくしの学生時代でした。

よく卒業できたと思うのですが、五体無事で大学を卒業して、知人の軽い誘いでちょうど立ち上がった都市計画事務所に入所しました。知人とは学生時代にお世話になった先輩で、学生運動の合間にちょっとしたビジネス(仲間と下請け)をしていた時に仕事を回してもらっていた。生活費とか活動資金とか、色んな意味で助かった。

都市計画コンサルタント会社の光と影

事務所といっても結社みたいなものです。 飲み屋で気の合った人を明日から採用するといった具合に、自由な会社で、社員の裁量も大きくて、ある意味何でもありだったような気がします。

当時の仕事スタイルは、午前様までコツコツと、それから飲み歩き極端に言えば朝登校する学生の姿を見て我に返る、仕事をしているのか遊んでいるのか、よくわからないそんな感じだった。 だが、ちょっと言わせてもらえば、ただ飲んだくれていたわけではない、多くは先輩たちと都市づくりについて議論する、それがいい経験だった。その先輩たちが都市計画の第一線にいたから、いろんな勉強をさせていただきました。

その当時、都市計画を仕事にする事務所は少なくて、東京を拠点に、地方の仕事を中心に、地方に行くたびに支社を作って、長期間滞在するというかたちをとっていました。 場所もそうなんですが、むしろ人なんでしょう、人が好きなんです、がんばっている人を見ると近づいてしまう。そんなことから居座る結果になる。

私の場合は、沖縄や四国などでの仕事が長く、山形でも山形新幹線(1992年開業)関連の事業で4年ほど通いつめました。 行く先々すべてをリセットして取り組む、出会いや発見も含めて何が起きるか、何ができるかって、そのワクワク感は子供頃に感じたワクワク感に通じるものが、その気持ちは半端ではなかったように思います。

新天地に行ったら先ずは夜の探検、何軒もはしごする、名士といわれる人たちが夜な夜なざわつく店にたどりつくまで色々と情報を集めながら、出会えた時はハッピー、そこで色んな話を聞く、ここで思い入れが注入されるというわけです。 そんなこんなで、まちづくり、多くの人に助けられ、教えられ、まがりなりにも自分らしくできたのではないかと思っています。

20代の頃は、多くのことを地方の役所の人たちに教えてもらいました。 地方の地方に行くほど、良くしてくれました。本当に公僕だったような、給料いらないよってわけだから自分というものを持っている、本当に上下の関係なく仕事の完成に突っ走る仲間という意識で仕事していたように記憶している。 本当にすごい人が多かった。ラッキーだったと思います。

そんなスタイルで仕事をしているこの事務所、自由人が集まっていたからおもしろい実験的なこともした。しょせんアルバイト集団のようなもので背負っているものが少ない、だがらできたのかもしれません。 社内入札制度をとっていたのです。しかも、事業ごとの独立採算で、給与もその枠のなかから自分で自由に決めてよかった。大げさに言えば仕事も給与も自分次第というわけです。だから、給与が半年くらいゼロの時期もありましたが、まったく気になりませんでした。

時間に追われる仕事もありましたが、意外と自由だった。今でいうネット炎上するような出来事が毎日起こる。それも反省なのですが、仕事面でも反省することは多いです。 区画整理の仕事をしていた時、全国津々浦々どこにいっても同じような街をつくってしまった。今思えばどうかしていた。

早々に区画整理から足を洗い、住民と一緒になって取り組む地区計画のまちづくりに移行しましたが、気が付くのが遅かったようで、もう後の祭りです。今考えると、50年、100年耐えられるまちづくり、その責任は重たいと思っています。

この仕事は、人とのコミュニケーションが大事、無理があるかもしれないが、というわけで酒を飲むのも仕事だったように思います。権利者とぶつかった時などに、お酒は本当に潤滑油になった。 朝の4時に「この若造が!」とたたき起こされることがありましたが、それでも、一緒に酒を飲むようになり、向き合って話ができるようになると、こちらの立場も理解してくれるんです。それで、お互いに折り合い”を付けられるようになるわけです。答えの一つを見つけるのにお酒は役に立ちました。ただ、帰してくれない、徹底的に飲もう、自然とお酒が強くなりました。

こうしてお酒とともになし遂げてきた仕事について、仕事巡礼というか、どうなっているのか見に行く、会いに行きます。言わば“折り合い”が本当に良かったのか、間違っていなかったのか、自己満足かもしれないが確認しに行くわけです。 人に会うとあの頃は……と感謝されるが、むしろア~だ、コ~だと言われたい、それが普通だしそれが明日への活力になる、贅沢だけど。 ボーと眺めて、その時の判断はそれで良かったのか、自分に問いかける、“答え”はないのだけど、そんな繰り返しです。 

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山形の地に根ざして、市民と行政をつなぐまちづくりNPOの立ち上げ

東京と行き来する生活だったのですが、どういうわけか山形県都市整備協会に声をかけられました。2001年(52歳)のことです。またまた、あまいささやきに酔いしれて山形に居座ることに。

協会に勤めてからは、山形の様々なまちづくりにかかわらせていただきました。ところが、山形での暮らしがホテルからアパートへと山形に重点を置き始めたころ、協会が解散することとなりました。東京に戻ろうかと悩みましたが、地元の文化や生活に、もっと向き合いたいという思いを強くいだいていたことや、都市計画における市民と行政の協働を進めたいという強い思いがあったので、有志とNPOを立ち上げることにしました。なぜか、これまでのところとは違ってその思いが強かった。

それが、「NPO法人まちづくり山形」です。 NPOの活動は、多岐にわたっていますが、すべての活動の根幹には、「都市計画を市民の手に 市民力の育成」というテーマがあります。 発足当時は夢もあったのでがんばりました。

2年にわたって、マンション居住者への意向調査を行い、街なか居住に関するワークショップを定期的に開催しました。その結果、街なかでは、住まいが暮らしと結びついていない現状が分かりました。両者をつなぐためには、用途地域など都市計画上の設定だけではうまくいかず、やはり、市民活動やコミュニティが必要で、そのための仕組みや仕掛け、場づくりなどの具体案を提言しました。 その当時の提言はコミュニティに視点を置いて、地域で考え判断するというもので、間違っていなかったと思っています。

また、空き家、空き地、そして老朽マンションの問題にも触れました。 継続した取り組みとして、街路事業に伴うまちづくりの支援を行っています。 山形市の栄町大通りや薬師町通り、寒河江市流鏑馬通りなどのまちづくり活動について、住民が立ち上げた検討組織を支援するかたちで、行政とのコーディネートなどを行っています。他にも、各地のまちづくり活動を地元NPOなどと連携しながら活動支援を行っています。

活動を始めたころから思っていたことがあります。 今住んでいる山形市なんですが、良く東京などで山形の話をすると鶴岡、酒田、金山町の名前は出るのですが山形市は一向に出ない。今、「違うよ、山形市は変わるよ」と発信するチャンスと思っています。

山形市には文化を感じないというのが共通の理由なのですが、どうやら行政がやってきた仕事に大きく関係しているようです。 だが、今がチャンス、若い市長になった、変わるチャンス、変われるチャンスと思っています。 佐藤市長がもっと大胆に動けるように、応援する動きがもっとあってよいと思っています。

行政の方と一緒にまちづくりにかかわって40年以上、仕事上どうしても行政の方のスタンスなどを見てしまう。そのスタンスによっていいまちづくりができるからです。 今少し感じているのが、行政の方に……はじめから収まるところに収めようとしてしまう傾向が見られることです。そのほうが楽だし、批判もされず、あとから問題にもならないから。

確かに、私も自分のしてきたことを振り返ると反省ばかりです。けれども、私の経験では、「いいものをつくろう」という思いで集まり、ひとつひとつ積み上げていけば、たいていはいいところに収まるものです。それをマニュアルで何とかしようとする。「違うでしょ」、「どこにでもあるものを作りたいのですか」と言いたい。思い込みもあるのでこれまた厄介です。

だけれども、一番怖いのは、「大変な思いはしたくない」となっていることです。 一人ひとりの職員は優秀でやる気もあるはずなのに、どうして組織になると停滞してしまうのか。その根本にあるものを変えなければならないと、やはり一人ひとりがもっと行動と発言ができるような文化を創っていくしかなさそうです。 そうなると、とても数年で変わるものではないと思うが、もう一度言います。今がチャンス、山形市が大きく変わるには今から仕掛けることが必要です。

若者からまちづくりの文化を変える

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私が期待しているのが若者です。 これからの人口縮小、都市縮小の時代に、力任せのやりかたでは絶対に上手くいきません。 若者たちに、自分の意見を主張するという姿勢をもってもらいたいと考えて、「若者の地域づくり交流の場づくり」という活動をしています。

具体的には、まちづくりを実践する仕事人から話を聞き、議論をするという場をつくっています。進行係は山形大学生と東北芸術工科大学生の二人にすべてを任せることで、毎回、熱心な議論をやっています。

大学でもさまざまなかたちで地域づくりの調査や実践がなされるようになっていますが、単一の大学のカリキュラムにとどまらず、もっと継続的な深みのある交流や連携を生み出していくことが必要であると考えて、やれることをやっています。

そもそも、中山間地に行けば大歓迎してくれますが、市部ではなかなか若者を受け入れてくれません。今、芸工大生によるリノベーションの活動がきっかけで変わろうとしていますね。

何はともあれ、若者には、「あれはダメ」の壁を崩していけるだけの力と、それを支えるネットワークが必要ですし、大人たちの理解と協力が不可欠。若者にやさしい、可能性を引き出せるまちになってほしい。それが山形市の大きな魅力の一つになると思っています。 その手伝いをすることが、長く生きてきた私の最後の仕事の一つと思っています。

(2017年2月8日インタビュー、聞き手・伊藤嘉高) 20170208195906